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● 岡野八代 『法の政治学 ― 法と正義とフェミニズム ― 』 青土社 2003-10-03
出た当初にレビューし、その後サイト改変にともない撤去してしまっていたのだが、この拙評にリンクが張られていることを最近になって知った。 そのまま再掲するのもなんだから、ポスト・スクリプト付きでアップする。

――――――― 再掲 ここから ―――――――

江原由美子が編集する『フェミニズムの主張』の最終第5巻『フェミニズムとリベラリズム』(勁草書房、2001年)の巻頭論文はその理路がクッキリ浮き出ていてひときわ印象に残っている。それを書いたのが岡野八代である。

いろいろなタイプの本がある。本を読む目的はいろいろだろうが、わたしの場合、この手の(硬そうな)本を読み通す持久力の大半は、何か使えるネタ(すごく広い意味で)はないかなという下心に支えられている。それがアンソロジーだと使えそうな論文を一目散に漁る。単著の場合でも知らず知らずのうちに使えそうな部分を探しながら読んでいる。

経験上、収穫が多い本(論文)には一本太い筋が入っている。この一本というのがわたしの場合大切で、これが何本もあると頭に混乱をきたしてしまう。
その筋は「はじめに」か「あとがき」を読めば暗示してあるケースが多い。他の人はどうか知らないが、SFやミステリ以外、まずこれに目を通すのがわたしの流儀である。
本書にも案の定「はじめに」と「あとがき」が両方付いている。立ち読みして購入。

読む。
困ったことに筋がきっちりつかめない。それがないとは言えないが、太すぎて向こう岸が霞んでいるような感じ。
収穫はといえば、ある。あるのだが、一本引っこ抜いたら数珠繋ぎになっていてなかなか切れない。これも困る。つまり、ノートにとろうとすると長くなりすぎ、付箋を貼ると本がふくらむ。
リーガリズム、正義(リベラリズム)、フェミニズム、アーレント、従軍<慰安婦>、暴力、ことば、などなど。織りが込み入ってるなあ。ショッピングモールで目移りして結局何も買わずじまいってことになってしまいそう。

こんなときは目を閉じて品物が浮かんでくるのを待つ。そして最初に浮かんできたものを買う。いちばん高価なものとは限らない。どうしてそれが最初に浮かんできたのか説明はつかないが、でも悔いを残さないためにはこうするに限る。困ったら考えるな。これも経験則。
で、浮かんできたフレーズはこれ。
「生じてしまった不平等・・・」
本書のなかのもっとも重要な知見というわけでも・・・ なんでこれなんだ。。。買ってもいいのかしら?

探す。半ば過ぎまでアーレントだったから、えーとこの辺か、あった、意外と後ろのほう。
このフレーズはロールズの格差原理の特徴を記述したものであり(「生じてしまった不平等を、別の不平等な財の配分によって是正・・・」)、これ以降、この主題のヴァリアントがジャブのように繰り出される。よくスナップが効いており、次第にストレートの威力を発する。たとえば、本書の通層低音である従軍<慰安婦>問題にかんする一刺し。

「配分的正義を正義の通常モデルとする正義論の立場に立てば、日本政府が従軍<慰安婦>問題に対して無責任であっても、正義に悖ることがないという結論が導かれる。」

さらに、「政治的正義の時間的可能性」の提起へと連なる。

「政治的正義は、過去において現れていなかったもの、正義の領分ではないと考えられていなかったものを、現れていてしかるべきだったもの、正義の領分であるべきであったものと想像し直すことによって、そうした過去においてわたしたちが見過ごしてきたさまざまな事象を、<あるべき>/<来るべき=未来の>わたしたちの関係性のあり方へとつなげようとする」

かくして、空条丈太郎のマッチョで無敵のスタンド、スタープラチナに退場宣告が下される。

ついでに。
フェミニズム関連の文献については惹かれるものがあり、比較的目配りしてきたつもりだ。振り返って、男が書くフェミニズム論のレファレンスと女が書くそれとを比べてみると、後者のほうに女がより多く登場する傾向が明らかに認められる。
いかにもそうだろなと納得もするが、しかし、本書は、そのレファレンスの男女比が極端である。量質ともに、圧倒的に女、女、女、というその偏り具合において類例を見ない。もちろん、できあがってみたらこうなっていたというのが真相だろうが、この文献の渉猟と構成は見事というほかない。ありそうでない、こういう本をひそかに待っていたような気がする。

――――――― ここまで再掲 ―――――――

【PS】

最近出た『センの正義論 ― 効用と権利の間で ― 』(勁草書房)のなかで、若松良樹は「正義の女神に解決を期待されてきた問題」として三つの問題を挙げている。 「福利の増進」(功利主義や厚生経済学)、「制度の設計」(ロールズ)、「不正義の是正」(シュクラー)。 岡野は、これら三種を並立させることを拒否し、三番目の視点から前二者を撃つ。 言い換えれば、「期待されてきた」という十把一絡げの受動的表現を避け、「誰がその問題の解決を期待してきたのか」と問い、発問者間のちがいを際立たせる。あるいは、誰がその問いを発しようとしてこなかったのか、と。

視点の転換、と言ってしまえばそれまでであり、それをフェミニズムと呼ぶのが適切かどうかを詮索する技量も持ち合わせていないけれど、岡野のライバルとして空条丈太郎を連想したのは(訂正: 彼のスタンド名は正確にはスタープラチナ・ザ・ワールドでした。ご指摘いただいたYさん、ありがとうございました)、少なくともわたしにとって偶然ではない。誰がなんと言おうと、物語の鍵となっているガジェットは時間(の流れ)にかんするそれである。
悪乗りついでに、時間の流れのなかに佇む岡野のスタンドを強いて名づければ、ウィンド・オブ・ジ・アンデス。

空中都市マチュピチュの住民の末裔であるケチュア語を話す人々についてのエピソードが、アーシュラ・ル・グィンの『世界の果て the edge of the world でダンス』(白水社)に収録された「サイエンス・フィクションと未来」という短文のなかで紹介されています。おそらく彼女自身は、この話を人類学者の父親か、人類学風味の作家である母親から聞き知ったのでしょう。
人類学と言えば、クリフォード・ギアツは、反相対主義に抗しつつ、「カヌーに乗って陸地の見えなくなるところまで漕ぎ出(さ)」ねばならない、と言っています。
 この、カヌーで漕ぎ出すことこそ、少なくとも最良のかたちで達成できた場合には私たち人類学者がやってきたことです。そしてもし、私たちが確立した遠い距離と私たちが見出した遠い場所が効き目をあらわし始め、私たちの感性についての感性、私たちの知覚についての知覚を変容させ始めているときに、これを何とか表面的な変更だけで済ませよう、世界の縁 the edge of the world から転落してしまわないようにしようとして、昔の歌やさらに昔の物語に立ち戻ってしまうのだとすれば、残念至極なことだと思います。反相対主義に対して異議申し立てが必要なのは、知識についての<すべてはものの見方>的なアプローチ、あるいは道徳についての<郷に入らば>的なアプローチが拒絶されているからではなく、文化性を越えるところに道徳性を位置づけ文化性も道徳性もさらに越えるところに知性を位置づけることによってのみ、そうしたアプローチを退けることができると思い込んでいるからです。今となってはこれは不可能になりました。そしならざるを得ない種類のことなのですから。故郷の真理を失いたくないのなら、はじめから故郷にとどまっていればよかったのです。(『解釈人類学と反=反相対主義』みすず書房)
(天狼星の高みから眺めるヴォルテールと対比せよ。)
閑話休題。

ケチュア語を話す人々のエピソードとは次のようなものです。彼女/彼らは
 過去とはあなたの知っていること、あなたが見ることのできるもの ―― だからそれはあなたの正面に、すぐ目の前にある ―― と考えます。これは行為というよりは知覚の仕方、進歩の度合いよりは意識の方法の違いによるものです。彼ら(they)は私たちと同様きわめて論理的ですから、未来は後ろに ―― あなたの背後に、肩越しに存在していると主張します。未来は振り返ってちらりと垣間見るということがない限り、あなたは見ることができないものです。・・・・・そんなわけで私たちがアンデスの人々を私たちの進歩の世界、公害、メロドラマ、人工衛星といった世界に引きずり込むとき、彼ら(they)は後ろ向きに ―― 自分たちがどこに向かっているのか見きわめようと肩越しに眺めながらやって来るのです。
 私はこれこそ知的で適切な姿勢であると考えます。少なくともこれは「未来に向けて前進すること」についての私たちの議論はメタファーであること、動かないこと、他者を受け入れること、開放的であること、平静でいること、静止していることに対する私たちのマッチョ的な恐怖に基づいた、恐らく文字通りこけおどしとさえ捉えられる神話的思考の一端であることを思い起こさせてくれます。
このエピソードは「ボクノマエニミチハナイ、ボクノウシロニミチハデキル」式の道程主義を異化するに十分な威力を発揮します。と同時にスタープラチナ・ザ・ワールドを無力化してしまいます。なぜなら、ザ・ワールドの最強性は、時間の流れを停止することができるというその能力にかかっているからです。「マッチョ的な恐怖」を前提としてそれを最大限利用するこのウルトラ・マッチョなスタンドを、ケチュアの人々は風のように受け流すことでしょう。

正義の通常モデルである分配の正義にたいする岡野の批判はしたがって強力です。再掲した文章のなかで言いたかったのもこのことでした。

岡野が各所で依拠しているジュディス・シュクラーによって「希望の党派」が与するリベラリズムから峻別される「記憶の党派」の「恐怖のリベラリズム」が抱く「恐怖」は、「マッチョ的な恐怖」といわば裏返しの関係にあります。「記憶の党派」は、「過去志向/遡及的な backward-looking 反省を通じて、現在の『不平等の除去』を試みる」のです。そして、このアイディアが「政治的正義」のコンセプトへと彫琢されていくことになります。「政治的正義の時間的可能性」。

倫理的正義=無限責任とリーガリスティックな正義=自己責任との間のミッシングリンクとしての政治的正義の発見。クリアな図式です。過去は「取り返しがつかず」未来は見ることができないという「限界」にもかかわらず、というか、むしろその「限界」こそが「未来への可能性」をつなぎとめるのだという議論にも説得力あり、です。しかしながら(と、あえて逆接させますが)、その説得力の過半は(というのも言い過ぎかもしれませんが)、ナラティヴな想像力に訴えることによって産み出されているような印象を受けたということも記しておきたいと思います。それが魅力? そうかもしれませんが、最終章にもっとボリュームを割いてほしかったなあ。

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