いつまでたってもいっこうにガッカイ・デビューをはたせないタハラはおそまきながらリセット・ボタンをおしてみました。もうておくれというこえもきこえてきそうですが。
Source: William Thomson, "The Young Person's Guide to Writing Economic Theory",
Journal of Economic Literature, Vol.37 (March 1999), pp.157-183.
- 表題 (時に凝りすぎかえってクサくなる傾向)
- 論文の主題ができるだけ読者に伝わるように。
- 梗概 (ややテキトー傾向)
- 読者はまずここを読んでから、本文を読み進むかどうかを決めるので、十分に時間をかけるべし。
- 謝辞 (書いたことない)
- 惜しまずたっぷりと。ただし、クレジットの分量は寄与の割合に比例するように。5ページのコメントを寄せてくれた人への謝意には独立したセンテンスを割くべし。
- 序文 (本文への突入を急ぎすぎ逆に短くなりすぎる傾向)
- 既存の諸研究の文脈中にあなたの論文を簡潔に位置づけ、あなたの主な新知見をこれまた簡潔に述べる。
当該分野の概観に2ページも3ページも費やしてはならない。読者はあなたの貢献が何であるのかをもっと早く知りたいものだ。
平明な言葉づかいを用い、専門的な細部はスキップせよ。
文献レビューは先行研究のたんなる列挙であってはならない。誰が何をやったかという情報は含まれるべきではあるが、それよりも諸々のアイディアの発展のほうを優先せよ。また、あなたがどこに足を踏み入れたのかを曖昧にしてはならない。
ある程度の繰り返しは避けられないにしても、序文で指摘済みのポイントをそのまま全部論文の本体で繰り返す必要はない。
- 結論 (ここも付録的に片づけがち)
- 序文の焼き直しであってはならない。
ただし、得られた諸結果をコンパクトにまとめ、あなたの分析から引き出される主な教訓を述べておくことは、将来の研究の方向性を約束する一連の個別的な未決の諸問題や一般的議論へのしかるべき指標となる。
- 文献 (まあ普通でしょ)
- 研究の背景となったレレヴァントな文献を掲げる。
当該分野を通覧するよい文献があればそれにも言及しておく。
あなたが使わなかった文献や、論文を書き終えた後に見つけた文献については挙げなくてもよいかもしれない。
書誌については注意深くチェックし、論文が出版されたらアップデートする。
- 論脈 (他人に言うほど自分が気をつけているわけでも)
- 論文の構成、節の構成、小節の構成、段落の構成は明瞭でなければならない。
そのためのいい方法は、各段落を一つのセンテンスに要約し、それらを連ねてみたときに、意味が通るかどうか確かめてみることである。
同じことを小節や節のレベルでもやってみるべし。
- 独創 (その気はありありなのだが)
- あなたのやったことが興味深いものであるということ、これまでやられたことがないということを示すべし。
- 誘惑 (負けそう)
- 得られた諸結果が意義深いものであるということを示そうとするとき、あなたは大きな誘惑に駆られる。それらの諸結果を最大限の一般性で、大げさな言葉で、流血シーンを活写するかのように提示したくなるものだ。
そうした誘惑に抵抗すべし。
- 謙譲 (わたしがやると正真正銘のバカに見えるか、慇懃無礼と受けとられるか)
- 自分の議論が単純であると見えるように、ぜーんぜんたいしたことないんですけどみたいな、のごとく見えるようにすべし。
謙譲は精神衛生上よろしい。
のみならず、あなたにたいする優しい気持ちを査読者の胸に醸し出す。
そしてこれが一番重要なのだが、謙譲は、あなたが自分の得た諸結果を一段高度な一般性で立証するのに役立つ。
- 単純 (よ〜く心さねば)
- 審査のプロセスや刊行にかかわるさまざまな制約のせいで、論文を容易に理解可能にできたはずのものが一掃されしまうというのは不幸だ。
あなたとしては、難しく見える結果など一つたりとも含まれていないと思うかもしれないが、それはまだ投稿の準備ができていないのだ。
あなたをそれらの発見へと導いた洗練された推論にあなたが自信をもっているのは当然だが、にもかかわらず、それらをシンプルに見えさせるように励むべし。
- 空前 (やってるつもりのなだが)
- これまでやられたことがないということを示すために、あなたの仮定が関連文献で用いられている諸仮定とどうちがうのか、それらのちがいが概念的ならびに技術的になぜ重要な意味をもつのかを説明せよ。
関連する諸論文を引用し、それらの論文があなたの主題どのようにかかわっているのかを語ることによって、文献についてのあなたの知識をハッキリと示して見せよ。
さらにまた、あなたの研究に動機を与えよ、ただし与えすぎは禁物。さもないと、読者は疑惑を抱きかねない。
- 過程 (自分の書いたものを読んで「??」の経験あり)
- あなたがそれを発見したプロセスを忘るべからず。
論文を書き終える頃までには、任意の数の財とエージェント、一般生産可能性、不確実性などなどが登場してきており、誰もそれを理解できないだろう。それどころか、数ヶ月後に読んだら、あなた自身もそれを理解できなくなっているだろう。
あなたは少しずつ徐々にステップを踏んで自分なりの定理にたどり着いた。まずは、二人、二財、線形技術、不確実性なしという条件下で、たくさんの図を描くことによってそれをひねり出した。
読者が中心的アイディアを理解するようになるのも、あなたのモデルの単純なバージョンを検討することによってである。そして、その読者自身の研究のなかで役に立つ可能性がもっとも高いのはそれら中心的なアイディアであって、証明の細部ではない。
- 討論 (機会を得るのが困難)
- 発見のプロセスを論文のなかで再現するのは簡単ではない。だが試みるべし。
ゼミの形式張らない雰囲気は、この試みを大いに助けてくれる。
しかしながら、あなたが最終的に選択する定式や諸結果にどのようにしてたどり着いたのかを説明するということは、散漫な議論を許すわけではない。
諸々の表記法と定義と仮定と動機をでっかいサラダの具のようにごた混ぜにしてはならない。
略式の代数的操作を追加し(ドレッシングを加えてサラダを和えるのか?)、次のようなセンテンスを突如としてわれわれの面前に持ち出すのはもっとよくない。「ゆえにわれわれは以下の定理を証明した云々」 そのような状況に置かれると、わたしは一人の読者として、強盗に襲われたかのように感じてしまう。
- 誤謬 (御意)
- 誤謬から学ぶべし。
あることを本当に理解するには、それを理解しそこなったという苦みを味わうにしくはなく、
それを本当に本当に理解するには、重大な誤解の経験が一番である。
誤りに気恥ずかしさを感じるのではなく、それらを大切に温めるべし。
ものごとはさまざまなかたちで誤解されうる。それらさまざまな誤解の可能性を完全に理解してはじめて、あなたはそのことを理解したと主張することができるのだ、とさえ言ってもいい。以前にもっとうまく言った人がいる。「誤謬よ、汝は害悪ではない」(ガストン・バシュラール 1938)
読者もまた、あなたが陥ったのと同じ誤解に囚われやすい。
どこでトラブったのかをしっかり覚えていれば、読者を迷わせかねない地点を先読みして手を打つことができるだろうし、よりよい説明をおこなうことができるというものだ。