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● <沈黙の自由>または非教育的なるものの教育学的地位 2004-01-28
もう四半世紀前の話になるが、学生時代、学校事務をテーマにゼミ発表をしたことがある。
学校事務を教育に位置づけるために苦労した覚えがあるが、その結論には違和感が残った。 その違和感を分析しなかったのは研究者(になるつもりは当時はなかったが)として怠慢であった。 分析に着手しなかった原因の一つは、今にして思えば、学校における教師(お仕事文書以外で「教師」と表記したことはないが今後はケース・バイ・ケースとする)の活動をア・プリオリに教育と思い込んでいたことにあった。「教師の仕事が教育で、事務職員の仕事は非教育なのか?」という反問がつねにすでに優先的問いとしてあった。「教師が学校のなかでおこなっていることは教育だけか?」 あるいはもっと進んで 「教師がやるべきことは教育だけか?」 という問いは思い浮かばなかった。
勝田守一による「教育的」「非教育的」「反教育的」の区分はあまりにも有名であった。

以上は前置き。

こんな昔のことを思い出したのはひょんなことがきっかけだった。
いわゆる知識所有権(とりわけ GNU FDL のこととか、翻訳をWeb上に掲載できるかなど)を調べようと 『情報学事典』 (弘文堂) をめくっていたら、 「著作物の二次利用」の右ページにある「沈黙の自由」という項目にたまたま目がとまった。ふむふむ、広く認知されているらしい。
ついでに今度は 『解説教育六法』 (三省堂) を見てみると、憲法19条の「解説」に次のようにある。
本条は沈黙の自由をも保障しており、内心の思想を推知しようとすることは本条に違反する。ただし、教育の過程では、生徒の人格的教育・指導の観点から本人の思想に関する質問が必要となる場合がありうる。
ちと乱暴に過ぎはしないかという気もしないではないが、さっさと関連文献を漁ることに。
意外に、もとい、予想通り少ない。そんななかで吉田一郎「教育実践における精神活動の自由」(八木・梅田編『人権教育の実践を問う』大月書店)は参考になる。
吉田の議論は慎重に重ねられている(たとえば「拒否する自由」を認める)。が、基本的には次のような見地に立っている。
法学的な内心の自由の範疇のなかで用いられる「推知」の概念は、権力が個人の内心を推知することを禁ずるものである。しかし、他方では一般的に考えてもわかるように、人と人とのコミュニケーションにおいては、相手の心の内を推測することはあたりまえに行われることである。教育実践の場においては、指導の構想を描くうえでも、指導の実際の場面で子どもとの対話をすすめるうえでも、「推知」は不可欠である。(111ページ)
ここでは、教育行為が権力行為と区別され、教育行為がコミュニケーション行為一般といったん等置され、さらに教育的コミュニケーション行為の特殊性を前提として推知が肯定されている。
これにたいして教育関係は権力関係でもある、と目くじら立てようが立てまいが、推知を排した教育を想像することは難しい。あるいは、教育=権力関係説は、非権力的な教育には推知が不可欠であるという命題を必ずしも排除しない、と言い換えてもよい。

しかしながら、こうなってくると、教育の世界には「沈黙の自由」は存在しえなくなる。「沈黙」は「妥当な推知」の前段階に位置づけられ、一連の教育過程のなかに回収される。
推知・推測の技術や考え方・・・・
安易に断定的な推知をしない・・・・(114ページ)
いつも推知が妥当で、子どもがすんなり納得・了解してくれるとは限らない・・・・
要は、推知を押しつけないことである。そのために沈黙、反論、一時的中断もふくめて対話を継続するように、開いておくことが必要である。(115ページ)
周到な立論だが、お気づきのように、これは「教育的」なるものの膨張の一例である(広田さんぽく)。
吉田の言うような「沈黙」のケースも多々ありうるだろうが、そこにはコミュニケーションの遮断を実質的効果としてもつような「沈黙の自由」の入り込む余地は存在しないように思われる。
教育をコミュニケーション行為の範疇に属す特殊な行為であるとみなすならば(この見方を支持する)、この自由が行使されると、そこにはもはや教育は存在しえない。この意味における沈黙は教育的コミュニケーション行為の不在を意味する。
なぜこれを教育と呼ばなければならないのか、素朴に合点がいかない。
言いたいことは単純だ。学校には、そしてそこにおける教師の営みにも、教育と教育でないものがさまざまに交錯しているとみるのが自然なのでは、ということである。
教育でないものを教育だと言ってしまっては教育の成り立ちようがない。

もちろん、ものの見方としては、この種の事柄を教育の内に見るか外に置くかは相対的である。ただちに優劣を論じられる性質の問題ではない。
ただ、一言付け加えるならば、一方における教育の目的的概念規定と、他方における教師の行為の枚挙的概念規定とが、従来あまりにもすんなりと結びつけて考えられてきたということ(これ自体とても不自然)と、上に述べたこととの間には何らかの関連があるのではないか。
分析的議論にとっても規範的議論にとってもそうしておいたほうが有効であったからかもしれない。 だが、そんな時代はとっくの昔に幕を下ろしている、というのがわたしの見立て。ハズレ、かな?

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