ボウルズとギンタスの主張の解釈をめぐって黒崎勲は論文「学校選択の理念と公共性」(『教育学年報』9 所収)のなかで小玉重夫を批判している。解釈云々というよりはそれ以前の問題、書いてあることの全体をきちんと読んでいるかどうかという研究の基本的な作業への問いかけ、と言ったほうがよいかもしれない。
しかしながら、同論文の以下に抜き出す部分(494ページ)を読むと、アレアレ、と思わず身を乗り出してしまう。
資産の再分配の戦略に基づく教育バウチャー制度には、そのようなインパクトをもつことが期待できるというのが、ボールズの主張である。
脱出の機会が直接に親に力を与え、また親の意見を、より効果的にするようなものとすることができる。仮に脱出が学校の指導部にコストを与え、そうすることによって彼らがその行為の結果において「残余額の請求者」(学校制度の利用者 ― 引用者)により近づくならば、それは真実になる。
「そのようなインパクト」とは「現行教育制度の支配構造」にたいする「インパクト」のこと。括弧内の引用者注はもちろん黒崎によるもの。
問題は最後の部分。原文は次のとおり。
they would more nearly be residual claimants on the results of their actions
言わんとするところは、「彼ら(school leadership: 学校の指導者たち)が(それまではそうじゃなかったんだが)自らの活動の諸結果にたいする残余請求権者(ほぼそう言えるほど)になる」ということか。
つまり、<school leadership> ≒ <claimants>
ところがここで、<claimants> に <学校制度の利用者> と引用者注を付したら、
<school leadership> ≒ <claimants> = <学校制度の利用者>
となってしまい、これは不合理、理解不能である。
引用されている部分に先立つ箇所には
problems of incentives and accountabilityが生じる様が次のように書かれている。
...the presence of private information and conflict of interest support inefficient outcomes, given that the de facto property rights entail a separation between control and residual claimancy. The parents (and their children) are the residual claimants (the child is educated well or not); but the control rights are being exercised by teachers and the school head who hold private information concerning their own actions.
すなわち、所有権の2要素であるコントロール権と残余請求権が、前者が教師に、後者が親にというかたちで分離して帰属している。これは de facto な事態である。ならば、インセンティヴとアカウンタビリティの問題を解決するにはどうすればいいか、と話は進み、
opportunities for exit が提起され、黒崎による引用部分へと接続する。
退出の機会は de facto な事態をどう変えるのか?
残余請求権が学校利用者から学校に移るというのがこの文章のポイントである。
退出の機会が保障された後の残余請求権者は教育を提供する側なのであって、もはや学校を利用する側ではない。
ボウルズとギンタスがこの論文で学校選択に言及する理由は、それが彼らのメインの主張である「資産の再分配」の格好のサンプルだからである。そして、「資産の再分配」とは、要するに分離している「コントロール権」と「残余請求権」を一致させるということにほかならない。となれば、当然話は見えてくるというもの。この場合は、コントロール権はもっているが残余請求権をもたない教師と校長に両方とも帰属させる、ということを言っているのである。いささかくどくなるが説明を加えよう。
所有権にはコントロール権と残余請求権が含まれる。
学校教育の場合、通常、親・子ども(プリンシパル)は残余請求権者であり(教育はうまくいったりいかなかったり)、校長・教師(エージェント)はコントロール権者である。
両者の間には、往々にして、利害の対立、情報の非対称性が生じる。
エージェントの行動はプリンシパルにとって重要であるにもかかわらず、後者は前者に説明責任を負わせたり、あるいはインセンティヴを喚起する効果的な方途をもたない。なぜなら、
エージェントの行動をモニターするのに莫大なコストがかかるから。また、
エージェントの行動を逐一契約書の条項に列挙することはそもそも不可能であるから。さらに、
教育委員会その他を介した民主的ルートも効果的ではない(数年毎の選挙ではねえ。有権者の選好もいろいろだし)。
職務専念の宣誓はしたけど、今ここで俺が何しようとそれがどうしたっていうのよ。どのくらい精勤するかは俺が決めるよ。いかにも官僚的ですな。
ここで学校側に残余請求権を与えるとどうなるか。
コントロールは自分の意思で、自分らの成果の残余のフローも自分次第。一種の自主管理企業ですな。
要するに、この論脈では、学校選択の実質的効果は資源の再分配にある。具体的には「学校(教師たち)が自己の行動の結果にたいする残余請求権者になる」ということ。
説明終わり。
「資産の再分配」の「文化的メリット」とか「資産の再分配というアプローチが構想する公共性の内実」とかにかんするかぎり、黒崎の記述に問題はないんだけど、したがって、そのかぎりでは対小玉批判は依然として有効なのだけれど、肝心の「資産の再分配」それ自体の理解にかんして、上記引用文中の引用者注(コレさえなければすんなり読めたのに)はなんともアレアレでしょ。ひょっとしたら、たんなるケアレス・ミスなのかもしれませんが、にしても痛すぎると思いません?
なお、ボウルズとギンタスの90年代以降の仕事は、その本体部分において大いに注目すべきものを含んでいると思っていますが、それについてはいずれまた。