先日(5月8日)の記事で「自主管理企業ですな」と書きながら、旧ユーゴスラヴィアの自主管理利益共同体(SIZ)のことを思い出した。実は私の初めての学会発表の題目は「ユーゴスラヴィアにおける教育管理システムの変遷」だった。1988年のことである。そのときまでには、ペーパーの原稿も書き上げていた。「ユーゴスラヴィアにおける教育管理システムの変遷 1945--1970 ― ユーゴスラヴィア教育制度研究 1 ― 」(400字換算: 158枚) 当時所属していた研究室の紀要に投稿するつもりだった。が、直前に取りやめた。理由はいろいろある。異端と呼ばれるチトー主義もレーニン・スターリン主義と根元のところで同型であるとの見解を詰める作業がまだ残っていた。「その2」を書けば「その1」も書き直さねばならなくなるだろうと予想された。しかし、すでに定期刊行の雑誌が入らなくなってきていた(ベルリンの壁崩壊は1年後に迫っていた)。結局お蔵入りとなって現在に至っている。研究のための洋行の必要性を感じたことはその後一度もない。
話をもとに戻そう。思い出したのはその未提出論文の末尾近くに書いた「自主管理共同体とは「リスク共有共同体」なのである」という一節。ソースは次のとおり(自主管理利益共同体は「労働の自由交換」の二つある組織形態のうちの一つ)。
The free exchange of labour is compulsorily organized in another form when the services of broader social interest or vital significance to each recipient are involved. This arises when by means of free exchange of labour an appropriate level of solidarity is achieved or particular individual risk is socialized. Consequently, self-managing communities of interest are simultaneously places for self-managing adjustment of decisions concerning the free exchange of labour, communities of solidarity, and risk sharing communities. (Pero Jurkovic, "A new approach to financing social services in a socialist self-managing country", in Guy Terney and A. J. Culyer (eds.), Public Finance and Social Policy, Wayne State University Press, 1985, p.282)
risk sharing communityはずいぶんしっかりと頭にこびりついてしまっているらしく、以来「コミュニティ」と聞くとまず「リスク・シェアリング」が浮かぶ。
最近では「リスク」といえば、まずベック=ギデンズのそれだろう。リスクは「第三の道」の重要なキーワードである。「第三の道」に曰く「リスクへの能動的な挑戦」(訳113)、曰く「「責任あるリスク・テーカー」の社会をつくる」(訳170)、曰く「資金ではなくリスクを共同管理しようというのが福祉国家である」(訳194)などなど枚挙に暇無し。
ある論者は次のようにまとめている。
このことは、「コミュニティ」の意味付けを大きく変えることになるだろう。かつてコミュニティは、個人を「社会化」する二次的な役割しか付されていなかった。だが今日、コミュニティは「個人化」のもとで、それぞれに異なった「リスク」を割り当てられた個人が、「リスク」と責任を共同で管理する政治参加の場として位置付けられる。すなわち、多様な生き方とリスクを持つ人々を包摂する政治空間としてコミュニティが定義されるのである。(柴山桂太「「豊かさ」の中の複雑性 ― 「リスク社会」論の批判的検討 ― 」、佐伯啓思・松原隆一郎編著『<新しい市場社会>の構想 ― 信頼と公正の経済社会像 ― 』257ページ)
話は飛ぶ。
『教育学年報』10 所載の松下良平「「学び」論の構想」。佐藤学はわからんと常々思っていた私の興味にヒットしたので読んでみた。それなりに勉強になった。が、佐藤学のわからなさは「学び」論ではなく「共同体」論であることがいよいよハッキリしたというのが収穫。
しかし、「「共同体」論の構想」を書こうとしても書けないだろう。佐藤の「共同体」には一貫性が欠けている。彼の唱える「学びの共同体」論がわかるという人がいるのが不思議でたまらない。わからなければ聞いてみればいい。そのとおり。私は数年の間隔を置いて同じ質問を佐藤にぶつけてみた。「あなたの立場、背景理論、言動スタイルの基準は何か?」 回答は同じ。「ぼくはプラグマティスト」
「プラグマティスト」とはどういうことか、哲学的に語る力量はない。ただ、研究(者)の態度として「理論的プラグマティズム」(北田暁大)とでも呼ぶべきものがあるということは理解できる(詳しいことを知りたければ「
柏屋電波倶楽部」を訪問されたし)。
それはたとえば次のような理論的構えのことである。
センにとって潜在能力という空間に注目する理由が不正義の是正にあるとするならば、ランキングの哲学的な根拠に立ち入るより先に解決しなくてはならない問題が存在する。レイプや殺人が極悪非道であり、不正義であることに関しては争いがないだろうが、その理由に関しては多様でありうる。もしその理由に合意を取り付けることができるまでは目前で行われている犯罪を止めるために手出ししてはならないと哲学やリベラリズムが命じるのであれば、捨て去らねばならないのは被害者を救いたいという義侠心ではなく、立ち止まって考えることを命ずる理論のほうである。不正義を是正するためには完備性や順序やその哲学的根拠に関する完全な合意までは必要なく、明白な不正義に対する合意のみが存在していれば足りるのである。(若松良樹『センの正義論 ― 効用と権利の間で ― 』196ページ)
もちろん、完備性を犠牲にするということは一貫性を捨てるということではない。完備性を犠牲にするという中途半端な立場を一貫するのは、あいまいな部分を切り捨てて完備性を保つよりも、ある意味で強靱な理性を要する。
さて佐藤学だが、彼は至るところで「学びの共同体」と「公共空間」を互換的に用いている(山脇直司が『公共哲学とは何か』(筑摩新書)で言及しているのもこの部分だ。佐藤学の勢力、恐るべし)。この用法は、私の知る限り、思想史の常識を越えている。私の理解がハズレていなければ、公共空間の必要条件は複数の異質者の遭遇である。言い換えれば、共同体と共同体の間に出現する。したがって、学校が共同体であればそれは公共空間ではなく、逆に公共空間であれば共同体ではない。そもそも互換可能であるならば、どちらか一方だけを用いるほうが紛れがないというもの(山脇はどちらかといえば「公共空間」と読んでいる、というか、彼が言及しているのは「学びの公共世界へ」という佐藤の報告である)。
異質な共同体同士の共生条件としての学校の条件を探究するというのなら理解可能である。だが、そうはなっていない。もちろん、それに似た言い回しは佐藤のなかにも見出すことができる。典型的にはたとえば、
学校それ自体が、学習者の共同体なのだ。学習を見守り援助する先達(教師)の存在、学習を励まし合える仲間の存在、異質の経験と文化を持ちながら、その経験と文化を共有し合い成長し合える同僚の存在、それらの人々の存在が、どれほど個人の学習と成長を励まし、それを豊かにするかは、あらためて言うまでもないだろう。(『カリキュラムの批評』139ページ)
しかし注意深く読めば、ここには、出会った異質者が公共空間を形成することなく共同体に変貌する様が規範的に描かれている。それはこの国の教育(学)の世界では「言うまでもない」ほどにお馴染みの台詞である。
佐藤にとって「共同体」は規範的切り札としてどうしても手放せないもののようだ。次の文章は比較的言及されることの多いものだが、念のため長めに抜き出しておく。
・・・大人たちも、高校生たちがいったん「個人の自由」という言葉を口にすると、途端に説得する論理を失ってたじろいでしまう。じつは、ここに、若者たちがこれからのり越えていくべき、最大の哲学的問題が表現されている。個人の「自由」や「権利」は、何にもまして絶対的な価値をもつべきなのだろうか。もし、もしそうでないとするならば、個人の「自由」や「権利」よりも大切にすべき価値とは何だろう。/この課題は、リベラリズム(自由主義)とコミュニタリアニズム(共同体主義)との論争として焦眉の問題となっている事柄である。私はコミュニタリアンである。その立場から言うと、「個人の自由」や「個人の権利」は、たかだか二世紀ほどまえに登場した概念にすぎない。わが国においては、いずれも一世紀まえの翻訳語である。人間の歴史は、もっと深く大きな倫理によって支えられてきた。人と人との絆であり共同体の存続である。したがって、個人の「自由」と共同体の「善」が対立する場合には共同体の「絆」が優越すべきであると、私は考えている。それでこそ「個人の自由」も「個人の権利」も一部の人のあいだでにはなく、より多くの人びとのあいだで共有され実現しうるのではないだろうか。「茶髪」や「ピアス」は「個人の自由」であるが、「援助交際」は「個人の自由」ではない。売春はけっして個人では成立しないし個人の問題でもないからである。あなたと私が繋がっているとすれば、そして、あなたが仲間のなかで生活し仲間とともに生きていくならば、あなたは「援助交際」をしてはならないし、私もあなたの仲間もあなたの「援助交際」を許してはならないのである。(『学びの身体技法』68--69ページ)
ここでも政治哲学(史)の一般的理解としては首を傾げてしまうところがあるが長くなるので思考パターンに絞ろう。教師にしろ生徒にしろ各々の共同体を背負って学校で出会う。公共世界ではそのことを相互に尊重・承認しつつコミュニケーションを成立させなければならないがゆえにそのルールが重要になる。佐藤はそれでは満足せず、先の引用では「共同体」の名のもとに「共有」を求めていた。これは、サブ共同体をメンバーとする高階の共同体のことかとも想像される。しかし、今度はさらに進んで特定の(この場合は「私」の)「共同体」に帰属することを求めている。これを「ラサール一直線」の作者の言葉と取り違える人がいても不思議ではないくらいだ。
佐藤の影響力に鑑みて敢えてコントラストをキツメにした。彼の言ってることがどうしてわからないのかがわかったので、このへんでやめておく。これで三度目の質問はしなくて済みそうだ。
ほんとは三題噺にするつもりだったが、二題で終わる。