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● 福祉国家批判/リパブリカニズム/公共性 2004-05-30
そういうことならもっと早く読んでおけばよかったと思うようなことがよくある。渡辺幹雄 (2002, 2004) を読んだときもそうだった。ロールズ『正義論』の改訂版の「序文」がそれである。すでに初版をもっていたし(しかもハードカバー)、多数の修正が施された日本語版やドイツ語版ももっているので、改訂版が出たと聞いてもわざわざ買う気にはなれなかったのだが、これを機に買うことにした。お安いです。で、件の箇所を読んでみる。
 今だったらそうしただろなと思うもうひとつの修正がある。(第V章で導入した)財産所有民主制の理念を福祉国家の理念からもっとビシッと区別することである。 二つの理念は全然違う。それなのに、両方とも生産的資産の私的所有を認めているせいで、私たちはミスリードされ、両者を本質的に同じものと考えてしまっているのかもしれない。 一つの重大な違いは、財産所有民主制の背景的諸制度は、その(実効的に)競争的な市場システムと相まって、富や資本の所有権を分散させ、かくして、社会の小部分が経済を、また間接的に政治生活それ自体をコントロールするのを防ごうとする、という点にある。 財産所有民主制がこれを回避する手立ては、言うなれば、各期末に相対的低所得者に所得を再分配するということではなく、むしろ各期当初に、生産的資産と人的資本(教育された能力や訓練された技能)の広範な所有権を保証するということである。 無論、これはすべて平等な基本的自由と公正な機会均等を背景にしている。 この理念は、事故や不運によって敗れる人々を援助するということだけではなく(それは実行されねばならないとしても)、むしろ、すべての市民が、しかるべく平等な諸条件のもとで、相互尊重を足場に、自らの関心事をやりくりし、社会的協働に加わることができるようにするということである。
 ここで、時間とのかかわりで、政治的諸制度の目標についての二つの異なるコンセプションに注目してみよう。 福祉国家においては、その目標は、誰一人としてまともな生活水準より下に落ち込んではならないし、人々はすべて事故や不運に対する一定の保護 ― たとえば失業保険や医療 ― を受けるべきだ、ということにある。 各期末に援助の必要な人を認定できる場合には、所得の再分配がこの目標の役に立つ。 そうしたシステムは、格差原理を侵害する大幅な所得格差を許容するのみならず、諸々の政治的自由(第36節で導入されたもの)の公正な価値と両立不能な富の大幅な相続的な不平等を許容する。 公正な機会均等を保証するために何らかの努力がなされるとしても、富の格差や、その格差が可能にする政治的影響力の格差を考慮に入れるならば、それは不十分であるか、さもなくば効果がない。
 それにたいして、財産所有民主制においては、その目標は、自由で平等な人格としての市民たちの間で、時間をかけて、公正な協働システムとしての社会という理念を成就することにある。 したがって、基本的諸制度は、最初から、十分に協働的な社会構成員であるための生産手段を、少数者だけではなく、市民全体の手中にもたらさねばならない。 政治的諸自由の公正な価値を支援する諸制度が重視されるとともに、相続や遺贈にかんする法律によって資本や諸資源の所有権を時間をかけて着実に分散させること、教育や訓練を準備することによって公正な機会均等を保証することが強調される。 格差原理の十全な威力を理解するには、福祉国家の文脈のなかでではなく、財産所有民主制の(もしくはリベラル社会主義体制の)それのなかでとらえなければならない。すなわち、それは、ある世代から次の世代へと渡る自由で平等な市民たちの間の公正な協働システムとしての社会のための、互恵性もしくは相互性の原理なのである。
これを読むといろんなことが見えてくる。 格差原理は再分配の原理ではなく分配の原理である、したがって、クロンマンの解釈(タレント・プーリング)は間違っている(少なくともロールズの意図を取り違えている)、評価国家はこの線引きに従えば、福祉国家としての特徴を備えている、などなど。

さて、財産所有民主制/福祉国家という二項対立を切り口とする渡辺によるロールズの議論の整理は明快である。 以下の二項対立がこの対立とパラレルに置かれる。 分配/再分配、コミュニティ/「私的社会」、共和主義/アンチ共和主義、理性的多元主義/合理的多元主義、一般利益/全体利益、オーバーラップするコンセンサス/暫定協定

共和主義つながりで話を飛躍させる。

サンデルがロールズに挑んで始まった論争は「リベラル−コミュニタリアン論争」として知られる。この論争の核心はどこにあるのか。坂口緑・中野剛充(2000)によれば、
「リベラル−コミュニタリアン論争」と言うと、個人の権利の優先か、あるいは共同体的善の優先かをめぐる、互いに相容れない対立のようにみえるかもしれない。しかし、コミュニタリアニズムはただ、権利よりも善を優先せよ、と主張しているわけではない。コミュニタリアニズムが提起した問題は、現代リベラリズムが一般的な個人の権利を擁護しようとするあまり、誰でもない、どこにもいない「個人」を対象にしているのではないかというものである。「リベラル−コミュニタリアン論争」の焦点は、優先すべき価値の相違にあるのではなく、「個人」「自己」をめぐる観念の相違にあるのだと言える。
その後、1990年代以降、「コミュニタリアニズムはリベラリズムに対する人間学的な批判を超えて、独自の政治的オルタナティブ ― 共和主義と文化多元主義 ― を提示するようになっていく」(同)。共和主義的コミュニタリアニズムである。

そこで共和主義とは何か、という話になる。乱暴に言ってしまえば(試験のヤマがハズレて仕方なく素で答案を書くとしたら)、近代の黎明期に、政治的オルタナティヴとして、当初はローマ、次いでギリシャの政体を独自に再構成したもので、その議論では「徳」や「市民」がキーワードとして頻出する。そして、犬塚元(2003)によれば、
 思想史学における共和主義思想の発掘は、リベラリズム批判と連動してきた。このなかで、不幸(に)して、議論が公と私の二元論を援用して整理され、共和主義思想は私的関心への埋没を批判する議論として、例えば「国民の道徳」論 (あるいは、civic nationalism 論や、「社会の形成に主体的に参画する『公共』の精神、道徳心、自律心の涵養」を掲げる中教審の教育基本法改訂答申(2003年3月)) などネオ・ナショナリズムと呼びうる主張のなかでも援用され主張されてきた(注)。公共精神そのもの(あるいは政治参加そのもの)はいかなる志向性ももちうるのであって、いかなる文脈でいかに制度化するかという議論を欠いたまま公共精神そのもの自体の重要性を説く議論は危うい。
 そうした時代情況のなかで共和主義に関心を注ぐのであれば、<今ようやく>以上に<今さら> なぜ共和主義かという問いにも答えうるべきである。なるほど、共和主義なるものは、多様な構成要 素をうちに含むアモルフな思想潮流であるかもしれない。しかし、そのような共和主義思想の歴史的 展開ないしその思想的ポテンシャルを理解するにあたって必要なのは、リベラリズムたらざるものを、 曖昧なまま「シヴィック的」なるものとして一括して事足れりとすることではない。今日において現 代的意義も見据えながら共和主義を考えようとする際には、共和主義思想のメルクマールとみなされ てきた種々のものを注意深く区別しながら観察・考察することが必要ではないか。そうすることによっ てこそ初めて、共和主義思想のなかに、公共精神や徳といった道具立てに依拠することなく政治や社 会を論じようとした議論の系譜(ヒュームのそれを指す=田原補記)もが存在したことが明らかになるのである。
この箇所に付されている注。
そもそも、公と私──公共精神とそれを欠いた私的情念・利益──が単純に二分されるものではないという点こそ、これまでの共和主義研究がもたらした知見だったのではなかろうか。私的な動機付けと公的な行動とを媒介するものとしての賞賛・名誉・名声は、ヨーロッパ初期近代思想史に頻出するテーマである。
そういえばマンデヴィルなんてもいたなあ。
共和主義において「公と私」が「単純に二分されるものではない」という歴史家の指摘は、少し前に読んでとんでもなく夢想的と投げ捨てた小林正弥(2002)の主張を思い起こさせる。そこで提唱されているのは「新公共主義」であり、彼はこれに「ネオ・リパブリカニズム」とルビを振る。ことほど左様にいかにもという感じ(ジコチュー的なギョウギョウシさ)で個人的には好きなスタイルではないのだが、私も少しオトナになった。記述スタイルの割りにはその発想はとてもシンプルである。
歴史的な共和主義が、自由主義(リベラリズム)でも共同体主義(コミュニタリアニズム)でもない第三の道を意味する場合が多いのに対し、新公共主義は、いわば自由主義(リベラリズム)にしてかつ共同体主義(コミュニタリアニズム)であり、双方の長所を統合する思想であると言うことができよう。

新公共主義(ネオ・リパブリカニズム)の観点からすれば、公共体は、定義上、全体論的側面と同時に原子論的側面が存在し・・・
ここで「なぜそこには両側面が存在するのか?」と問うてはならない。なぜなら「定義上」そうなのだから。これは堂々めぐりである。問われるべきは、というか応じられるべき問いは、おそらく、「新公共主義」という概念が何を明らかにすることができ、どんな構想に役に立ちうるのか、ということであろう。

(ところで、公と私を単純に対立させるだけのそんな平板な議論は、見渡してみると、実は昨今あまりない。敵を矮小化しておいて叩くのは易しい。)

いきなり間宮陽介。彼などは、アレントに仮託しつつ、たとえば次のように述べる。
公共性に独自の存在理由を与えるためには内外二つの世界を分裂させるのではなく、両者の交わりを考えなければならない。この交わりの部分にこそ公共性の独自の世界が開けてくる。(間宮1999b)
また、丸山眞男を読み解く作業のなかでも次のように述べている。
公と私とは別に公と私を結びつけるものとしての公共性という概念を導入すれば、丸山のいう「政治的なるもの」は「公的なるもの」とは必ずしも一致せず、むしろ「公共性」と過不足なく一致することが理解できるであろう。彼が近世からから近代、そして現代へと至る日本の政治思想にみたものは、公共性の未成熟、あるいは萌芽的にみられた公共性の解体の歴史だといってよい。(間宮1999a)
用語法がズレるが、似たようなことを黒崎勲(2002)も言っている。
公と私は、社会関係の二つの表現形態であるということである。先に社会的な存在としての教育を教育の共同性と呼んだが、これを公教育という名で呼び変えるとすれば、教育の私事性と公共性は、公教育理念の二つの表現形態であると呼ぶことができよう。教育の公共性が専ら教育の「公教育」的要素を独占するものではないというのが、ここでの要点である。
似てはいるが違うのは、黒崎がギデンズやポランニーを援用しつつ次のような観点を重視している点である。
・・・「経済的なことがら」、あるいは「私的なもの」とされるのは、国家によって、そのように位置づけられたものにすぎない。・・・近代社会における公私の区分は、私的なものと公的なものとの実態的な境界線に基づくものではない。[それは]実態的な基準に基づくのではなく、その時代の政治の課題となるということである。
この観点は私には理解しやすい。かつて無償教育の成立について調べたとき概略次のように書いたことがある。
つまり、内分点を打つという操作が「公」と「私」を同時に創出するのである。

アレントについての基礎知識
もし個人的関心に引きつけてアレントの延長線上で何かを語るとするならば、force や strength といった実体的・物質的な力に対置される、「権力」の、したがって「組織」のとりうる・とるべき形態の究明、これじゃないんだろうか。その道が果たしてロールジアン・リパブリカンに通じているのかどうか、興味あるテーマではあるが。。。

【文献】

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