近頃アレントが流行である。流行前に読んだことがなかったわけではない。『過去と未来の間に』に収められている比較的短いものは読んでいた。が、長いもの、主著と目されるもの(『人間の条件』や『革命について』など)については、引用・参照されている箇所の周辺を拾い読みしたくらいだった。正直あまり面白いと思えなかった。だが、流行がやってきて書店に色々並ぶようになるとやっぱり気になるもので、見かけるととりあえず手に取ってみる。深入りすると面倒そうなだなと心のどこかで思いながらパラパラ立ち読みを続けた。そんなあるとき雑誌『状況』がアレント特集をやっており、そこに載っていた論文の次の箇所が目にとまった。
いかなる政治哲学といえども、政治と経済を納得できる仕方で関係づけない限り、現在の我々に訴えるところはないのであり、アレントには結局それができなかったのである。//
ハンナ・アレントは、政治・国家についての「理論」、いうなれば「正当性についての理論」を我々に残してくれなかった。
ところがこのたび何の因果か『人間の条件』を初めて通読することになった。結構付箋を消費した。たとえば、「公的領域につきものの平等というのは、必ず、等しくない者の平等のことであり、等しくないからこそ、これらの人びとは、ある点で、また特定の目的のために、「平等化される」必要があるのである」という件などいつかどこかで使えそう。
しかし、何とも謎めいて印象に残っているのは、「私的領域」にかんする記述である。アレントといえば「公共性」と思い込んでいたので(実際十人が十人それについて語る)、余計新鮮に思えただけか?
それからしばらく経ち、もうそんなことは忘れた頃、いきなり上述の雑誌のことを思い出した(それで今これを書いているわけだが)。より正確には、先ほどのベンハビブの論文のタイトルがふと頭に浮かんだ。「個人的なものは政治的なものではない」 いわゆる第二派フェミニズムのコピーを逆手にとったものだったのだ(こういうレトリックに私は弱い)。そうそうベンハビブだよ。そういえば彼女についてはほかにもひっかかった記憶がある。彼女の思考スタイルは好きなので本はもっている(例によって読んだページは微々たるものなので「読んでいる」とは書けない)。その一冊
われわれがハンナ・アレントの政治哲学に負っているのは、あらゆるデモクラティック−リベラルな政治にとって中心的なカテゴリーとしての公的なるもの the public の復興だけではない。公的なるものと私的なるもの the private は相互依存的であるという洞察もまたそうである。この二つは二項対立の用語である。すなわち、私的なるものがなければ公的なるものに考えが及ぶというこことはありえないし、逆もまた同様。
私的という用語と結びつくさまざまな意味を改めて述べておこう。商品交換経済の勃興と近代的な国家諸制度の発展とともに、
私的という用語は広範な制度的諸現象を指すものとなった。たとえば、家族の家庭内の/再生産的な領域、そしてまた、自由市場における経済的な生産秩序、交換、分配、消費、さらには、市民社会内部における市民的、文化的、宗教的、科学的、文学的、芸術的なさまざまなつながりの圏域。
公的なるものと私的なるものの概念へのハンナ・アレントのアプローチにおいて際立つのは、私が本書においてさまざまな点で問題にしてきた制度的な枠組み、社会学的な弱点ではなく、むしろ彼女の現象学的な説明である。『人間の条件』に出てくる次の文章を考察しよう。
私的なるものと公的なるものとの違いは、必要と自由、無駄無価値と永久不変、そして最後に恥辱と名誉の対立に対応する。しかし、けっして、ただ必要なもの、くだらないもの、恥ずべきものだけが私的領域の中にそれにふさわしい場所を得るというわけではない。この二つの領域のもっとも原初的な意味は、いやしくもものごとが存在することになっているとするならば、一方には隠される必要のあるものごとが存在し、他方には公に開示される必要のあるものごとが存在する、ということである。
アレントがここで提起しようとしているのは、私的なるものと公的なるものとが相互にある一定の関係にある場合にのみ維持されうるような、人間的平衡 human balance と心的完全態 psychic integrity にかんする何らかのコンセプションである。この文脈の中でアレントが
私性 privacy ということで意味させようとしているのは、歴史上リベラルな政治体において根本的なプライバシーの権利と理解されていた信教や良心の自由ではない。さらに、アレントは、経済的富にたいするプライバシー権が存在するとも考えていない。上の引用 ― 一方には隠される必要のあるものごとが存在し、他方には公に開示される必要のあるものごとが存在する ― の中でアレントが
私性ということで意味させようとしているのは、第一義的には、「家庭的−親密的 domestic-intimate」圏域のある様相は公的な眼の睨みから隠されるべきだ、という必要性である。では、この「家庭的−親密的」圏域のどの様相が政治的眼から隠され、政治的活動から庇護されなければならないのか? この問いに対する答えは、彼女の思想における
私性と
親密性の区別を考察することによって書き入れることができる。
ハンナ・アレントは
親密性と
私性を区別した。16世紀から17世紀にかけての西洋における近代が出現のなかに、アレントは、政治的−公的なるものから社会的−公的なるものへの転換だけではなく、私的なるものの「親密的」なるものへの転換をも見た。彼女にとって、親密性への没入と個人的主体性への没入は同じプロセスの二つの様相であった。諸個人を孤立化させ、商品交換市場といった匿名の公的諸活動へと彼らを無理矢理幽閉するとき、近代という時代は、個人性崇拝、自己の唯一性・ほんもの性、心的調和への没入と配慮をももたらした。アレントにとって、個人性への、そして親密性への旋回の特徴は、これら人間的諸関係の「世界性喪失 worldlessness」を随伴するという点にある。
親密性とそれの世界性喪失形態から区別される私性の意味が存在するということをアレントは強調する。彼女は書く。
私性の第二の顕著な非欠如的 non-privative 特徴は次の点にある。すなわち、私有財産 private property の四方の壁は共通の公的世界から身を隠す唯一の頼れる場所である。それは、共通の公的世界で行われる一切の事柄から身を隠すだけでなく、まさしく公示性 publicity から、見られたり聞かれたりすることから身を隠す唯一の場所である。完全にひたすら公的に、他者の面前で送られる生活は、よく言うように、奥行きがなくなる。こういう生活はたしかに可視性を保持している。しかし、非常に現実的かつ非主観的な意味において生活の奥行きを失うべきでないとするならば、何らかの相対的に暗い地盤が隠されて残されていなければならない。ところが、完全に公的な場所で送られる生活は、このような暗い場所から人目に触れる場所に現れてきたのだという特質を失っている。公示の光から隠される必要のあるものの暗さを保証する唯一の効果的方法は、私有財産であり、身を隠すべく私的に所有された場所である。
もとより、この文章でアレントが「身を隠すための私的に所有された場所」を求めているといっても、それはコンドミニアムや私邸を所有することを求めているわけではない ― 私の知るかぎり、彼女はニューヨーク市でアパートを借りていたし、その手のものは何も所有していたことはない。私的に所有された場所の意味するところは、一つの中心、避難所を自己 self に提供するような場所、能力 capacities や夢や思い出を開けっ広げにし、自我 ego の傷を慈しむための場所である。そして、アレントの言い回しを借りれば、それは、「暗がりから視界に現れ出る」ことを可能にするあの感覚 feeling を自我に与えるための場所である。この文章は「ホーム the home」の肯定である。われわれの社会における大量のホーム喪失 homelessness を背景に眺めれば、アレントの眼識の鋭い洞察力は明らかである。すなわち、まず、ホームは自己に奥行きを与える。この奥行きがなければ、自己は街路上の影にすぎない。しかし、それだけではない。ホームは、個人を保護し、慈しみ、公的領域に姿を現すにふさわしい存在にもする。個人は社会的なるものに抗して自らを守るために日々闘わなければないが、ホームを喪失した自己は社会的なるものの力 forces によって踏みにじられる準備が整った個人ということになる。
アレントの「ホーム」 ― 彼女のではなく私の用語法 ― の概念によって、われわれは彼女の理論における
私性についての最も重要な意味に到達する。これこそ、今日のフェミニスト理論が深めなければならないものである。[・・・以下省略・・・]