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● 広田照幸 『教育』 (思考のフロンティア) 岩波書店 2004-06-16
(よかったら「つづき」も読んでください。7月12日)

言いたいことを言ってるなあ、というのが率直な感想。
そのスタンスと内容には共感。
本を置いて、自分なりに考えてみた(い)こと。

「新自由主義的ビジョン」を最大限ポジティブに評価する、すなわちその強さを認めてから自説を展開するというやり方には好感が持てる。敵を(理論的にも実践的にも)矮小化し、最初から勝ったも同然という与太話を聞かされるのには辟易していたので(もちろんそうでないものも探せばある。この記事の後ろのほうで言及する)。
そのうえで著者は、「財やチャンスの配分を小さくすることで>生<の安定を保障しようとする社会」(90)を代替的なビジョンとして提示している。

おそらくすべての読者の頭に浮かぶのは、そうしたビジョンが採用される可能性や如何という問いであろう。本書にはそれにたいする返答はない。ただし、それを開かれた問いとして残すということは著者の意図的選択でもある。そのことは本書末尾のサブセクション(「教育の未来に向けて」)を読めばわかる。「異なる未来社会の構想」が必要不可欠であり、「教育学が理論作業として関与できるもの」がそこにはある、と書かれている(99)。

そうした作業に思いを致してみることにする。

著者が提案する代替的な社会構想の定式は三点にわたって敷衍されており、それらは各々、新自由主義的ビジョンの「批判の困難さ」として事前に整理された三点に対する「別解」として位置づけられている。しかしながら、この魅力的な未来社会が何となく宙に浮いているような感じがするのはなぜか。この感触は、思うに、これまた三点に整理されている新自由主義の「改革の論理」に対する代案の不在と無縁ではない。

著者によれば、新自由主義は、「個々人のレベルでの自己決定の積み重ねと、制度のレベルでの市場原理による競争・淘汰とを組み合わせることで、誰もが自ら望むような教育を受けることができる」(70)というビジョンを提供する。これが核心である。しかもそれが、私見では、理論的に裏打ちされている、すなわち明確な方法的核をもっているという点にその強さの秘密の一端が潜んでいる。

われわれ(押しつけがましい一人称複数を敢えて使うぞ、っと)が相手にするそれは、新古典派経済学の一ヴァリアントにふさわしく、行為理論(合理的選択理論「個々人のレベルでの自己決定の積み重ねと」)とある種の社会理論(均衡理論「制度のレベルでの市場原理による競争・淘汰とを組み合わせることで」)という理論対(「誰もが自ら望むような教育を受けることができる」)を、すなわち人間の相互行為を対象とする分析装置を具備している(参照: 塩沢2000)。これはたんなるビジョンではない。とするならば、われわれには異なるビジョンとともに異なる理論装置も必要だ、当然そういうことなる。

現在と未来を、あるいは現在を未来へと架橋しようとするのであれば、社会的行為の安定や変容、制度の立ち上がりのメカニズムの究明が欠かせない。個別行動の記述だけではなく、相互交渉の結果、全体としてどのような事態が成立するか、それを分析・説明する枠組みが必要である。社会学の十八番のはずだ。この点、教育社会学研究者としてのアイデンティティを研究の主題ではなく方法(実証)に求める最近の傾向には疑問を禁じえない。ともあれ、新古典派は、たとえ間違っているにせよ、それを明快に説明することに成功している(参照: 塩沢1997 第3章)。

なお、いわゆる新自由主義改革に上記とは異なる理論的布置を与える議論も出てきた。世取山洋介(2004)は principal-agent 理論にもとづく New Governace (最近よく見かけるので、これがテクニカル・タームかどうかは不明だが一応NG論と略す) に注意を促している。これは、情報の経済学とか契約理論とかインセンティヴの経済学などと呼ばれる比較的新しい流れ(現代古典派と総称する論者もいる)からの派生理論であるらしい。ただし、彼による principal(P) および agent(A) の宛名は私が想定していたいたものとはズレがある。
つまり、こういうことである。
情報の非対称性のゆえにPがAの行動を効果的にモニターしたり評価したりすることが困難な場合、エージェンシー問題 agency problems: AP が発生するということが知られている。
私もこれが気にかかっている。惹かれた理由は、Aを学校・教師、Pを親・住民に見立てれば、今日の教育問題はAPとして把握することができ、それは直ちに国民の教育権論にたいする批判となるという点にあった。ボウルズとギンタスの「資産の再分配」(学校選択)はこの問題にたいする一つの解とみなすことができよう。
ところが、世取山によれば、NG論は政府をP、学校・教師をAと見立てるのだという。ありうる着想だろう。新自由主義批判プラス新保守主義批判という無茶な二刀流を避け、一刀流でバッサリ斬るというメリットはたしかにあるかもしれないと思わせる。が、いずれにしても今後の展開を待ちたい。

それにたいして、本書の著者のほうは、「新自由主義的かつ新保守主義的」を秩序維持コストの最小化という論理で、プラグマティックに整合させて論じている。

もはや書評系ではなく書評の系と化してしまっているのでここらでやめておくが、最後に一言(実はこれ自体、福田進一のアルバム GUITAR LEGENDS に渡辺香津美が寄せたライナーノーツ「ついに来た!」からのパクリなのは何とも情けないんだけれど、他に気の利いた文章を思いつかないので)。

ついに来た! 初めて広田照幸の論文を読んだときの新鮮な印象。あれから何年経っただろう。「こんな男が同業者でなくてよかった、ほんまに」とホッとしたものだった。それなのについに彼は<こちら側>に来てしまった。かくなるうえは。。。
Alas! 「あとがき」を読むと彼は<向こう側>に戻ってしまいそうな素振りを見せている。でも書いておこう。今後の展開を待ちたい。

【文献】

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