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● PISA/フィンランド/perfect mobility/grading 2004-06-28
The OECD PROGRAMME FOR INTERNATIONAL STUDENT ASSESSMENT (PISA)の調査結果についてはすでに各所で言及されているのでくどくど紹介するのは控える (2004年6月28日現在、一次報告 First Results 二次報告 Further Results とも PISA のサイトから PDF で取得可能。手っ取り早く情報を得たければ東京大学大学院教育学研究科 基礎学力研究開発センターのサイトから 「OECD・PISA国際学力調査の方法的な問題点と将来 (第1回研究会記録) 」 PDF をいただいてくる) 。

PISA調査によって一躍脚光を浴びているのがあのトーバルズを生んだフィンランドである。その含意を佐藤学はその後のフィンランド調査の経験を加味して次のように述べている。
フィンランドの教育を参観して痛切に感じたのは、この点です。能力の不平等は教育の不平等の結果なのです。OECDのPISA調査は、フィンランドが課程の社会的文化的背景の教育に対する影響がもっとも少ない国であることも示していました。教育における平等が、社会的な不平等と拮抗し対抗する力を発揮していることの証です。(岩波ブックレット『習熟度別指導の何が問題か』)
もっともフィンランド調査に同行した苅谷剛彦(基礎学力研究開発センター第7回研究会の報告要旨 Web閲覧可)は「フィンランドの社会・教育については、equity/equality が強調されるが、学業成績にもとづいた競争がないわけではない。たとえば、upper secondary school(USS)の間にある序列関係を、土地の人々は「知っている」」と「隠された競争」の存在を指摘している。したがって、「社会的な不平等と拮抗し対抗する力」にかんしては要再検だが、北欧型福祉国家であるフィンランドが社会流動性を高い水準で保っていることを考慮に入れれば、「隠された競争」の帰結として生じる格差はさほど固定的でないのかもしれない。

いずれにしても住み良さげな国だなという印象。「競争」があるのは「分配」の基準が必要だからだろうけど、言い換えれば、小塩隆士『教育を経済学で考える』のいう「能力識別機能」を破棄しているわけではなさそうだが、その帰結の耐え難さの程度についてみれば、どうもかなり緩和されているみたいだから。

ところで、一番最近フィンランドの話を耳にしたのは、5月、ある会合の席だった。東京の某大学の教員、教育学を専門とする研究者A氏が、日本の学校教育との対比の文脈のなかで、自分の娘を今フィンランドに住まわせていると発言したのである。こういう発言には生理的な反発を感じる。あなたは娘の教育のために有用な情報を取得することのできる特殊な立場にあり、その情報を娘の特殊な利益のために利用する経済力もある。あなたの立場や経済力はあなた自身が獲得したものであり、娘の幸せを願うあなたの愛情も真性であるとしてもなお、わたしはあなたの選択に疑問がある。
これは長年の疑問である。しかし未だに答えの目途が立たない。

アダム・スウィフト Adam Swift の論文 "Would Perfect Mobility be Perfect?" European Sociological Review 20:1-11 (2004) に示されている所見はA氏への強力な援軍となるかもしれない。以下はアブストラクト。
本論文は、社会移動およびメリトクラシーにかんする経験的調査研究によって提起されている鍵的な規範的論点を探査する。 概して、この分野における社会学者たちの研究活動は社会正義や機会均等といった問題への関心に動機付けられてはおらず、傾向としては、どちらかといえばそういった問題への関心は漠然としており散漫である。 そのことが、彼女/彼らの発見がもつ規範的なレレヴァンスの評価を難しくしている。 そこで、容易に理解できるように、本論文は、社会学者たちの結果を明確にする5つの論点、政治哲学者たちにとっては馴染み深い論点を綿密に検討することによって、次のことを明らかにする。すなわち、 社会がその成員に社会正義もしくは機会均等をどの程度提供しているかを判定するためのベンチマークとして、「完全な社会移動」体制を採用するのは妥当ではない。本論文はその理由を説明する。 親と子の社会的地位の間の結びつきを産み出すメカニズムのいくつかには異論の余地がないし、たとえ全き正義の社会においてであってもそれらは存続するであろう。 社会学者たちは完全な社会移動を是認していはない。 だが、移動チャンスの不平等を生成しがちなさまざまなメカニズムの多様性、ならびにそれらの規範的意義にかんして、彼女/彼らが明確な考えをもっているわけでもない。
なお、彼の著書 How Not To Be A Hypocrite: School Choice for the Morally Perplexed Parent (Routledge Falmer 2003) も素材は違えど同じコンセプトで書かれている。魅力的なというか思わせぶりなタイトル。もちろん偽善者が自己を正当化する方法を教えてくれるわけではない、が、読者が念じればそう読めないこともない。雑誌 Theory and Research in Education の前号と最新号 Vol.2(2004), Issues 1 and 2 にこの本をめぐるやりとりが掲載されているのは確認済みなのだが見ることができていない。そこで今これをご覧になっている方にこの場を借りてお願いします。同誌を閲覧できる条件下にある方がもしいらっしゃいましたら こちらのフォーム から御一報くださいませんか?

ついでに関連文献をもう一本。
Francis Schrag, "From Here to Equality: Grading Policies for Egalitarians", Educational Theory, Winter 2001, Vol.51, No.1, 63--73
広田照幸が繰り返し警鐘を鳴らしているように、教育の世界に自閉することでよしとしないならば、「能力識別機能」との対峙を回避することはできまい。最初のさわりの部分だけ。
 平等主義者であるならば段階評価 grading 全般を廃棄することにひたすら努めるべきだ、と主張する者もいるだろう。 なぜなら、平等主義的な社会、マルクス主義のスローガン「能力に応じて各人から、必要に応じて各人へ」によって統べられる社会においては、段階評価など消え失せてしまうだろうから。本当にそうか? そのような社会ですら、人々が得手とすることと、彼女/彼らが他者に提供するサービスとの適合を促進したいと願うであろう。そうであるならば、ある職業のために数年、時には数十年を費やそうと決断する前に、自分の力 strengths が仲間のそれと比べてどうなのかということについて判断を形成するのは、若者にとって大いなる関心事となるであろう。
 チェスとかテニスとか歌唱といった、パフォーマンスが公示的 public で才能が容易に認められる領域においては、段階評価は不要であろう。
 しかしながら、すべての領域でそのように能力の一発判定ができるわけではない。生徒たちがキャリアについて、とりわけ、アカデミックな教科を修得する能力を要するようなキャリアについて真剣に考え始める時点において、生徒たちを段階評価しないならば、それは生徒たち自身のためにもならないし、社会のためにもならない。・・・もちろん、マッチングはハイスクール卒業前のテストもしくは一連のテストをつうじておこなうことも可能だが、一種類のテストあるいは一連の総合テストを基礎にしてキャリアを決めるのが若者にとっても社会にとっても賢明であると考える理由はほとんどない。
したがって grading を日常化することは合理的であるということになり、かくして「能力識別機能」はたんなる経験的事実の記述としての枠を踏み越え始める。どこか我が国のかつての進路指導を想い起こさせるこの記述を、平等主義をめぐる最新の理論動向と突き合わせてみるとどうなるのか? egalitarian grading を撞着語法としてではなく使用する? お手並み拝見。

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