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● 広田照幸 『教育』 (思考のフロンティア) 岩波書店, つづき 2004-07-12
このまえのやつはイマイチだったので、別の角度から。

広田照幸(『教育』2004)は、「選択肢を選ぶのは個人的問題か」(46ページ)と問い、「選択は私的 (private) ではあるが、他者と無関係な (solitary) 行為ではない」(57ページ)と答える。この後者に依拠して、学校選択にたいする否定評価、「合法的に「他者」を排除する仕組みなのだ」(57ページ)が導かれる。「学校を自由に選べるという自己選択−自己決定は、純粋に「自己」にのみ関わるのではない。他者の未来における可能な選択肢に関わっているのである」(47ページ)という指摘は実に啓発的だ。

私の私的選択とあなたの私的選択とは相互独立ではない。
初期条件が異なる(相対的な有利不利が存在する。私のほうがあなたより有利)場合、私の私的選択は、私をさらに有利に、あなたをさらに不利にする。私の当初の有利さが完全無欠な正当性を備えていない限り、これは不公正である。ゆえに、私は選択制を選択しないことを選択する。ありえない話ではない(私が普通の人間(非聖人)ならこれは反選好的選択)。

ここで仮に、意に反して学校選択制が導入されてしまったとする。
初期条件が異なる(相対的な有利不利が存在する。私のほうがあなたより有利)場合、私の私的選択は、私をさらに有利に、あなたをさらに不利にする。私の当初の有利さが完全無欠な正当性を備えていない限り、これは不公正である。さてここから先が問題だ。少なくとも今ここにおいては「選択制を選択しない」という選択肢はもう存在しない。
論点を鮮明にするため話を具体的にする。私にもあなたにも子どもがいる。私は社会経済的にも(この世で有用だとされる)知的能力においてもあなたより有利な立場にいる。学校が2校ある。ひとつは相対的に「いい」学校、もうひとつは相対的に「よくない」学校である。さてどうする?

私が私の私的選択のもたらす社会的効果にかんして無知であるならば話は比較的簡単である。
では、私がそのことに関して(たとえば社会学者のように)熟知しているとするならばどうか?
「後生だから訊かないでくれ! それは酷というものよ。どうしたらいいのか誰か教えて」

断る必要もないと思うが、上のたとえ話は特定の個人を想定したものではない、念のため。言いたいのは、選択は他者関連的であり不公正な事態をもたらすからダメだというだけでは十分ではない、ということである。<諸個人の私的選択 VS それらの集計的効果>という思考の枠組みを用いていては、この不十分性は見えてこない。ではどうすれば?

広田は「あとがき」で次のように述懐している。
・・・思いがけない苦労をすることになった。・・・教育学者として考えている私と、社会学者として考えている私、一人の市民として考えている私、というふうに、自分の中に存在する複数のスタンスのズレに直面することになったのが、苦労した一つの大きな理由であった。(111ページ)
「自分の中に存在する複数のスタンスのズレ」というフレーズ、すなわちそうしたメタ・スタンスは示唆的である(個人的にはこれが本書の魅力の中心に位置すると考える)。以下、トマス・ネーゲル Thomas Nagel, Equality and Partiality, 1991 の Introduction より。
 ・・・わたしの確信は、これまで工夫されてきたすべての社会的および政治的な仕組み arrangements が不満足であるというだけにとどまらない。それは、われわれ皆が正しいと認めるべき理想を実現することに現実のすべてのシステムが失敗しているせいかもしれない。だが、もっと奥深い問題が存在する。それはたんに実践的であるのみならず、理論的な問題でもある。道徳・政治哲学に属する理由により、われわれはまだ満足のいく理想を手にしていないのだ。解かれていない問題とは、集合体の立場と個人の立場を調和させるというお馴染みの問題のことである。けれども、わたしは、最初から個人と社会の関係にかんする問題として取り組むのではなく、本質と起源において各個人の自分自身にたいする関係としてその問題にアプローチしたい。・・・
 諸個人間の関係、あるいは個人と集合体の関係を支配しているいかなる社会的仕組みも、それに対応した自己内部の諸力のバランス a corresponding balance of forces within the self ―― 小宇宙におけるそのイメージ ―― に依存している。各個人にとって、そのイメージとは、パーソナルな立場と非パーソナルな立場との関係である。社会的な仕組みはこれに依存し、またこれをわれわれに要求するのである。ある仕組みが、その仕組みのもとで生活する人々の支持を請求することができるとするなら ―― 言い換えれば、その仕組みが正当性を主張することができるとするなら ―― その仕組みは、人々の自然に分割されている自己 deveided selves の諸要素が何かしら理に適った形で統合されているということに依拠しなければならない。あるいはそのような形の統合を生み出さねばならない。この自己の分割は大雑把なものであり、またそれに付随する複雑性も大きな広がりをもっているが、しかし、主題を考察するにさいして、これは必要不可欠であると考える。
 政治理論の最大の難問は個人内部の葛藤であり、それらの葛藤をその源で論じないような外部的解答はいかなるものであれ不適格であろう。本書でわたしは次のように主張する。すなわち、われわれ各人の内にある非パーソナルな立場は普遍的な不偏性 universal impartiality への強力な要求を産み出すが、たいするパーソナルな立場のほうは、そのような理想の追求と実現への障碍となる個人主義的なさまざまな動機や要求を引き起こす。このことが誰にとっても真実であるということが承認されると、今度は、かかる諸人格を平等に取り扱うために何が必要とされるかということにかんして、さらに深い問いが提出されることになり、そして翻って、このことが再度、個人にさらに葛藤を付加することになる。
 パーソナルな行為の道徳性にかんしても同じ問題が生じる。しかし、それらの問題についての論じ方は政治理論にまで拡張されなければならない、とわたしは論じる。政治理論においては、政治的諸制度と個人的動機づけとの間の相互支持または衝突という関係がもっとも重要である。受け入れ可能な政治的理想とパーソナルな道徳性の受け入れ可能な基準との調和的な組み合わせの発見はきわめて困難だということが明らかになる。それゆえ問題を別様に表現するとこうなる。われわれが諸個人の行為にとってのリーズナブルな道徳的基準を発見しようと試み、次いでそれらの基準を、社会的および政治的な諸制度を評価するための公正な基準と統合しようと試みるとき、この二つをうまく嵌め込む満足のいく方途は存在しないように思われる。この二つは、それらをバラバラにしてしまうさまざまな相反する圧力に反応する。
 かなりの程度、政治的諸制度およびそれらの制度の理論的正当化は、非パーソナルな立場の諸要求を外部化しようと試みている。しかしながら、それらの要求のためには、人員が配置される必要があるし、非パーソナルな立場とパーソナルな立場とが共存している諸個人によって支えられ生命を吹き込まれる必要がある。そして、このことが制度設計に反映される必要がある。わたしの主張は次のようなものである。すべての人格が等しい重要性をもつということを正しく扱い、しかも諸個人にたいして受け入れがたい要求を押しつけない、そのような諸制度を設計するという問題はいまだかつて解かれたことがない。そして、その理由の一端は、われわれの世界で、各個人の内部にあるパーソナルな立場と非パーソナルな立場との正しい関係についての問題がいまだ解かれていないということにある。( pp.3--5 )
今回もまた他人をネタに言いたいことを書いてしまい、書評の趣旨からズレてしまった。でもホントに書きたかったのはこっち。

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