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● 民主教育/討議デモクラシー/ガットマン/スミス 2004-07-20
エイミー・ガットマン流の民主教育におけるキー・コンセプトは非抑圧と被差別であり、彼女によればこの二つは民主教育の必要十分条件である。頭数デモクラットと strong democrat および有向デモクラット directed democrat からの反論を想定しつつ彼女は自らのコンセプションを擁護する(Amy Gutmann, Democratic Education, pp.95--97)。
 小学校の民主的諸目的は、民主的コミュニティに力を与えるだけではなく、それらコミュニティに制約を課す。しかし、それは、親の選択とかリベラルな自律性とか保守的な徳の名においてではない。デモクラシーそれ自体の名において、非抑圧と非差別という原理が民主的権威を限界づけるのである。・・・
 ・・・非抑圧と被差別という制約は・・・民主教育の理想を樹立するに必要にして十分である。いずれの主張も論争的なものである。「頭数」デモクラットであれば、それらの制約は不必要であると言うだろう。すなわち、多数派の意思決定が抑圧的であり差別的であろうとも、多数派が教育をコントロールしている場合にはつねに、民主教育の理想は満たされている、と。デモクラットたちが多数決による意思決定の正当な結果に制限を設けるかぎり、頭数デモクラットは、そのような人々は自分が護ると公言しているまさしくそのプロセスを貶めているのだ、と論じることになる。
 先の制約にたいする頭数デモクラットの批判が有無を言わさぬ説得力をもちうるとするならば、それは次の二つの場合に限られる。(a) 多数決による意思決定が、われわれがデモクラシーをめぐって重んじるもののすべてである場合。(b) デモクラシーが時間軸に沿って拡張しない場合。 われわれはデモクラシーを重んじるが、それは主要には、何が正義に適うのかを決める純粋な手続きとしてでもなければ、(何らかの非手続き的な基準によって決められる)正義を保証する完璧な過程としてでもない。むしろ、コミュニティが自らのために、そしてコミュニティの子どもたちのために何を重んじるのかを発見する最善の方途であるがゆえに、われわれはデモクラシーを重んじるのである。 もしもデモクラシーが時間軸に沿って拡張しないのであれば、われわれは、任意の特定の時点において、集合的に熟慮し、しかる後無制約の多数決ルールを適用することによって、コミュニティが重んじるものをもっともよく発見することができるかもしれない。デモクラシーのもつ時間的様相は、多数決ルールによってもたらされる結果が、将来において市民の熟慮能力を制約したり、あるいは将来の熟慮に十全に参加することから市民のある層を排除したりすることによって、将来の意思決定を非民主的なものにしないかどうかを問うようわれわれに求める。 教育政策は熟慮の能力さらには熟慮への要求をすら窒息させてしまうことができるがゆえに、教育に関して意思決定の問題を問うことはなお一層差し迫った課題である。
 「有向」デモクラットは先の二つの制約を必要条件としては受け入れるが、それらが十分条件であるという主張を拒絶する。「一般意思はつねに正しい」というルソーの主張は、実際の民主的意思決定にたいして彼が設けるさまざまな条件や制約のすべてが気付かれるまでは、にわかには信じがたいように思われる。 有向デモクラットは、自分たちの意思決定を一般意思についてのルソーの理想 ― それはつねに正しい ― に到達させるために、教育をおこない、それから民主的諸機関に制約を課すという追加的手立てを思い描く。しかし、教育がきわめて巧みに操作されたとしても(エミールためにルソーが推奨する教育を見よ)、また一連の制約がきわめて巧妙に考えられたとしても(ルソーが立法者に推奨したそれらを見よ)、正しい結果が保証されうるわけではない。最善の民主的機関は、最善の陪審がそうであるように、たとえその意思決定が抑圧的でも差別的でもない場合ですら、時として誤りを犯すであろう。 ルソーの立場は依然として手強い挑戦を突きつけている。結局のところ、多数派の犯す誤りは(陪審員たちのそれがそうであるように)深刻であり、またそれらの誤りは、それを犯す者たちにだけは損害を与えないのである。つねに正しい一般意思を社会が実現できるような方途を思い描くことができるとするならば、なにゆえに政治哲学はそうした誤りを認可しなければならないのか?
 もしも民主的意思決定がもっぱら正しい結果に到達するための手続きとして重んじられるのだとしたら、有向デモクラットの立場はもっと強力になるだろう。しかし、陪審裁判とは異なり、デモクラシーは、正しい結果に到達することができるというデモクラシーのもつ可能性よりもはるかに大きな価値を有している。さらにまたデモクラシーは、社会がその本性とは無関係な知性 ― ルソーの立法者がそうである ― によって統治されるのではなく、社会が自らを統治することを可能にするという点において価値がある。 デモクラシーが自らを統治すべきであるとするならば、それらのデモクラシーには自らの子どもたちを教育するさいに誤りを犯す余地が残されていなければならない。もちろん、それらの誤りによって、一部の子どもが不利に差別されたり、将来において他者が自らを自由に統治することを妨げられたりするようなことのない限りにおいてである。非抑圧と被差別という原理の約束はまさしくこのようなものである。すなわち、頭数デモクラシーを支持するが、多数派の横暴を許したり、将来における自己統治を犠牲にしたりしない。
有向デモクラシーが峻拒されていることは確かだ(わが国の民主教育論にはつねにその影がつきまとう)。それにたいして、頭数デモクラシーはこれだけ骨抜きにされてもまだ支持されていると言えるのか? 上記を読んだだけだと苦し紛れとの印象が拭えない。その辺を(ガットマンに即して)もっときちんとしておきたければ、Amy Gutmann and Dennis Thompson, Democracy and Disagreement を読むべし。・・・と書いて、念のため確認してみたら、改訂版で追加された「序文」と「エピローグ」にそのことが書いてあった。Deliberative Democracy ですな。ちなみに、トムソンとの共著(1996)は初版(1987)と改訂版(1999)の間に書かれている。
なお、ガットマンの民主教育論においても、民主教育は教育の内部過程に入り込む。たとえば、小学校の主要な目的は「デモクラティックなキャラクターの発達」に置かれる(p.127)。しかしながら、その場合も上記のデモクラシー・コンセプションは維持される。非抑圧、被差別、将来の自己統治、そして誤りを犯す余地。カリキュラムや what constitutes a good education については「エピローグ」を参照。二股膏薬(死語ですかやっぱり)ではなく中間の細いロープを踏み外すことなくデリケートなスタンスを維持するのは至難の業。

Deliberative Democracy (DD) に定訳はまだない模様。見かけただけでも「熟慮民主主義」「熟議民主主義」「協議(的)民主主義」「討議民主主義」「審議民主主義」。ガットマン・トムソンの DD については旗手俊彦「法の帝国と参加民主主義」(『法の臨界』[1]所収)。もちろん闘技民主派たるシャンタル・ムフは討議民主派を強烈に批判する。
私は,この道徳による政治の転位のなかで政治理論が生じさせつつある有害な影響について 特に関心をよせている。実際に,「審議的民主主義(deliberative democracy)」の名のもとで議論の タームを急速に押しつけつつあるアプローチの主要な主義のひとつは,政治的諸問題は道徳的な性 質のものであり,それゆえに合理的処理が可能だというものである。そのような見解によれば,民 主主義社会の目的は,すべての利害関係者にとって等しく公正な見解を体現する諸決定の創出をね らいとするような適切な審議的手続きをとおして達成される合理的な合意の形成である。そして, そのような合理的な合意の可能性を疑問にふし,また,「政治的なるもの」はだれもが常に不一致の 発見を合理的に予期するであろう領域であると主張する人々すべてが,民主主義の可能性を掘り崩 していると非難されるのである。(「闘技的公共空間に向けて」『立命館産業社会論集』37巻4号)
ところでチャーター・スクールの「民主的潜勢力」を力説するステイシー・スミスの議論が立脚しているのも DD である。「DDは、リベラル/コミュニタリアン論争の従来の二分法を調停しようとするとともに、多元主義の挑戦に応戦しようと試みるものである」 ( Stacy Smith, The Democratic Potencial of Charter Schools, p.45 ) 。DDとはそんなに冴えたやり方なのか? 手に余るテーマだから、この根本問題についてはとりあえず無視。
ガットマン−スミスのラインで指摘しておきたいのは次のこと、すなわち、彼女たちの民主教育論は、教育過程の外と内を行き来するということである。

ふたたびガットマンから始める。彼女は「新しい民主教育論」が必要だと言う。じゃあ「古い」のは? デュウイのそれである。彼女は『学校と社会』冒頭に記されたかの有名な個人主義批判に同意を示したうえで、続く一節、「もっともすぐれた、もっとも賢明な親がわが子に望むところのもの、まさにそれこそをコミュニティはそのすべての子どもたちのために望まねばならぬ」に疑問を呈する。
デュウイのねらいは称賛に値するけれども、個人主義を乗り越えるために、もっともすぐれた、もっとも賢明な親がわが子に望むところのものを、コミュニティが望まねばならぬものへと移し替えるのは、教育にかんするわれわれの視野を広げるやり方としては受け入れがたい。(pp.13-14)
なぜか? 「市民たちの同意なき教育の道徳的理想の押しつけは、自由主義的なもの、保守的もの、いかなる理想であろうと、民主主義を転覆させてしまう」からである(p.14)。かくして民主教育の理論を樹立することが課題として据えられ、その理論の焦点は端的に「意識的な社会的再生産 conscious social reproduction 」に当てられる。これはわが国の教育(学)界によくある「民主的主体形成」をめざす民主教育論よりも広い範囲をカバーする。
教育の民主的理想が意識的な社会的再生産のそれであるからには、デモクラシー理論は、諸個人による熟慮的な教育実践 practices of deliberate instruction と、少なくとも部分的には教育的諸目的のために設計された諸制度の教育的影響力 educative influences of institutions とに焦点を当てる。(p.14)
要するに教育の内と外、両方に目を配るというわけである。

スミスにあっては、distribution, governance, and civic education が民主教育の三つアスペクトである。
・・・討議デモクラシー理論は、これらのアスペクトの各々において問題となる公的インタレスツとチャーター・スクールの制度的構造とを媒介する概念モデルを提供する。分配の観点からは、チャーターの連合的 associational 性質は、意見−意思を形成する脱中心化的 decentered で複数的 multiple なパブリックというディスコース理論の社会学的仮定 [ ハーバーマス→フレイザー流のそれ = 引用者 ] に対応する。ガバナンスの観点からは、討議デモクラシーは、個々のチャーターの内部で正当な意思決定がなされうるような公式の手続きを提案する。加えて、この理論は、公的意見が生成される非公式のネットワークも強調する。・・・最後に、市民教育の観点からは、討議デモクラシーは、公共チャーター・スクールが、未来の市民に、理性に則った討議に参加する準備をさせるよう求める。と同時に、チャーター・スクールは、その内部でおとなと生徒がそうした力量を獲得することができるような連合体を提供する。(pp.71--72)
先の引用文中のガットマンの「焦点」を引き取るかたちでスミスは、「の実践 practice of」と「のための実践 for practice」という二つのレベルの区別を導入しつつ、次のように述べる。
・・・第一に、意識的な社会的再生産の実践は分配とガバナンスを含む。デモクラシー理論は、次の二つの問いにたいする答えを正当化することによって、市民たちがいかにしてこれらの実践に影響を及ぼすことになるのかを指し示す。a) 「民主的市民たちが教育されるべきその教育のやり方に影響力をもつ権威をいったい誰が共有すべきなのか?」(G: p.3) b) 公教育にかんする意思決定はいかにしておこなわれるべきなのか? 以上の問いは主として教育のガバナンスにかかわる。教育ガバナンスの実践という観点から、討議デモクラシーは、誰が参与するのかということのための諸条件を含めて、集合的意思決定に到達するための手続きのアウトラインを描く。さらにこの理論は、脱中心化された社会学的モデルから出発し、市民社会内部に存在する複数のパブリックを強調する。
 第二に、意識的な社会的再生産のための実践は、教育実践と、制度設計の教育的影響力とを熟慮する。ガットマンの主張するところによれば、「政治教育は、政治的参加に必要な徳と知識とスキルを涵養することをつうじて、市民たちに、自分たちの社会を意識的に再生産する準備をさせるのである」(G: p.287)。この第二レベルにおいては、民主的意思決定のための教育的実践が発生する。ここでは、教育のガバナンスと分配に随伴する制度設計は、生徒が獲得する政治的な徳や力量の型にたいして、教育的影響力を発揮する。したがって、市民参加のための熟慮的な教授実践は、ガバナンスや分配の手続きが発揮する影響力とともに、市民教育の全般的プロジェクトを構成する。それゆえ、討議民主的な市民教育 civic education の理論を探究するためには、そのものずばりの公民科教育 civics instruction とならんで、ガバナンスと分配のためのデリバレイティブなポリティクス・モデルもまた検討しなければならない。(pp.72--73)
なかなか味わい深い文章である。最後のセンテンスに赤線を引っ張っておこう。
of と for の対概念により、民主教育論はある種包括的な理論(≠強義の教育学)となる。

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