私立大学の教職課程というところに身を置いている者にとって最大の関心事は教員採用である。だが、関心の大きさに比して、教員採用についての理論?はほとんど見当たらない。そこで2年前になるが、全私教協という同業者組合の年次大会のある分科会(教員養成・採用・研修における教育委員会との連携のあり方を探る)で次のような発表を試みた。当日配布のレジュメの前半部分を再録する。
00) 本報告では、どうすることが「連携」なのかを提起してみたい。そのさい、そのありうべき「連携」の正当性ならびに可能性の根拠を明らかにすることが肝要と考える。そこで以下、まず、この主題に関連する理論状況について述べる。
次いで、今日の教育をめぐる状況を、同じく主題にかかわらせて位置づける。
そのうえで、ありうべき「連携」の姿をできるだけ具体的に構想する。あくまでも叩き台であり、請御検討。
01) この分科会名は実はかなり刺激的
02) なぜ刺激的か?
03) 「連携」の名宛人が教育委員会だから
04) 名宛人が教育委員会であることがなぜ刺激的か?
05) 教育委員会は教育行政機関だから
06) 教育行政機関を連携先とすることがなぜ刺激的か?
07) 内外事項区分論にしたがえば、
08) (1)教育行政は教育の外にあって条件整備に努めるべき、とされており
09) (2)教員の養成・採用・研修を教育の外的事項とみなすのには無理があるから(もっとも、教育法学の通説によれば、学校内における人事(担任の配置とか)は内的事項、外側の人事(採用や異動)は外的事項とされる)
10) 内的事項とは、教育の内容・方法にかかわる事項を指す
11) 内外の区分は曖昧という声もあるが?
12) たしかに、内外の区分は多分に相対的ではある。が、曖昧ではない。
13) 玄関は茶の間の「外」にあるが家の「内」ではある。しかし、ちゃぶ台を「外」に位置づけるのは難しい。「内」と「外」を入れ子状にしても最終的には「内」がなければならない。
14) 教育の中核が教師である(教科書ですらない)ことは、古今東西南北上下左右老若男女を問わず衆目の一致するところ
15) だから、勤務評定は、その目的・機能・手法の如何にかかわらず不当とされる
16) 勤務評定がダメで採用選考が OK という理由を説明するのは、少なくとも教育論としては困難
17) 日本教育学会の『教師教育の課題』(1983)のなかで「教師の選考・任用のしくみの問題」が「教師の採用にふさわしい」かどうかという観点から検討されているが、そこでこのことが問われさえしていないのはとても不思議・・・
18) では、原則的に考えたら、この分科会は無意味ということか?
19) 否
20) なぜ?
21) 内外事項区分論の枠内に収まらないということを示しているだけだから
22) 全私教協は行政寄りってこと?
23) たしかに「養成・採用・研修」という三題噺が明示的に登場してきたのは70年代の行政文書らしいから、そういう見方もありうる
24) では、別の見方というのは?
25) 内外事項論は反権力の系に位置付いており、それによって教育現実が改善へと導かれる可能性見えるかぎりにおいて有効
26) 逆に言えば、権力行為が教育問題を引き起こしていることが証明されるかぎり有効(だから今でも実践的に有効な局面があるということは否定しない)
27) ところが、現状をみると、必ずしもそうとはいえない事態が進行している
28) 昨年、今年の研究大会のテーマもそれを反映している
29) 教育行政は依然として批判され続けているが、批判の内容は「権力的介入」から「無策」「非有効性」へとシフトしてきている
30) 採用選考にさいして作問への協力の可能性を養成側に打診してきたり、隔世の感がある
31) 内側に任せておきさえすれば万事解決とはいかなくなってきている
32) こう言ってしまっては身も蓋もないが、教育行政のあり方が教育のあり方と関連しているという見地に立つなら、「連携」は追求すべき課題としての資格を得る
33) なんだか当たり前のような・・・
34) そう、当たり前。だから、身も蓋もない
---- 後半部省略 ----
以下、教員リクルート問題を考えるさいの古典を二点紹介する。教育の組織形態をめぐる問題がつねにそうであるように、この問題にたいする解答も、教育活動の専門的自由の確保方途と、その活動が公教育として営まれることの正統性の調達方途という二つを焦点に軌跡を描く。
【楕円幻想 その1】
その1はコンドルセの構想である。またかよ、いまさら。
1792年に立法議会に提案されるも審議されずに終わった法案の報告のなかに教員のリクルートのやり方も明示されている。やり方は二段階。まず、国立学術院が候補者リストを作成、次いで、そのリストの中から自治体(中等学校の場合)あるいは家父(初等学校の場合)が選挙で教員を選ぶ。これは教育の独立性の主張としてつとに評価されてきたシステムであるが、「知」のシステムの権力性を無視できない今日ではやや色褪せて見える。また、かの宗像誠也はここに中央集権の危うさを認めてコンドルセを嫌っていた。だが、教育が権力性から離れられるかどうかという話をここでするつもりはない。
気になるのは第二段階のほう。これまで、国立学術院のハイアラーキカルではあるが「脱」国家権力的な側面のみが注目を集めてきたのはいかにも特殊日本的であった。
コンドルセは「人間の無限の自己完成能力」「科学の進歩による人類の解放」を確信していたのはその通りだが、それは裏を返せば「知の現状の不十分さ」を自覚していたということにほかならない。学院が決めてしまってよいではないか、あるいは、候補者間で競争試験をやらせればよいではないか。なぜそうしてはいけないのか?
コンドルセは教育に関する二番目の覚え書きのなかで次のように書いている。
教育する才能は科学の進歩に貢献する才能と同じではない。
また、次のようにも書く。
ある唯一の資質の程度の大小を決めることではなく、相互に独立してさえいる種々の資質の総体のそれを決めることが問題である場合には、競争がすぐれた選択を保証すると請け合うことなどとてもできない。たとえ、競争が知識を有する判定者たちだけの面前でおこなわれたとしても、その場合には、判定者たちによって下された選択と、選ばれなかった候補者を推した判定者たちがその競争について報告することとの間に、必然的に対立が生じ、この対立によって、この競争は、その判定に不信を投げかけ、そしてそこから信用を奪い取る手段にしかなりえない。
陪審制を熱心に説くコンドルセらしく、ここには知識と蓋然性と社会的意思決定という主題があらわれている。とにかく、こうして彼は、「個人や地方の便宜」と「専門性」の両立を図っている。
公共性と個人の選択の関係についてもう少し。同じ覚え書きのなかで、コンドルセは「公共的制度 institutions publiques」を三種に区別している。(1)公権力によって直接維持される制度(裁判所や警察など)、(2)競争に委ねることが可能だがその公益性により公的に維持される制度(街路の清掃や交通関係の業務など)、(3)公共施設を利用するのが適当と判断しない人々の意思を妨害しない程度において、競争が尊重されなければならない制度(医療や助産など)。
さて、ここでクイズ。教育は(1)(2)(3)のどれに入る?
答えは(3)。これは簡単。
では、もう一問。次の文中の ○○○ に適切な語を選べ。
「教え方を身につけた候補者リストのなかから教師を選択することは、家父にとっての ○○○ である」
(1)自由 (2)不自由 (3)権利 (4)義務
いかが? コンドルセのテキストによれば正解は(2)。その意味するところは、選択の自由(これは権利でもあり子どもに対する義務でもある)に対する唯一の制約だという点にある。もちろん、挙証責任はあくまでも制約を課す側に求められる。
【楕円幻想 その2】
その2は1868年、第一インターナショナルのブリュッセル大会でオーブリ(ルーアン・サークル)がおこなった報告からである。彼は「われわれの時代の必要に見合うずばり民主的な教育プログラム」の項目の一つとして次のように提案する。
科学の普及を担当するメンバーについていえば、これらのメンバーは一つの広範な協同組合 corporation を形成する。この組合は、言うまでもなく、教育の対象・目的に応じてさまざまなカテゴリー毎に分かたれた教育に携わるメンバーたちによって構成されることになる。組合のメンバー、これら教師たちは、組合に所属していない者たちのなかからリクルートされる。その入会許可は、教師組合の会員たち自身によって、公然と、コンクールでおこなわれる。コンクールにさいしては、つねに、可能な限り全面的な公開性 publicité が保たれる。この組合に選ばれた者たちは、同僚たちによってのみ、権限を与えられ、資格を認められる。すなわち、この者たちは、国家の支配を一切受けることなく、自らの規律と自らの規約に従う。彼らは世論 opinion publique にたいしてのみ責任を負っているのである。それゆえ、この世論には、教師を監視する権利に加えて、もしも教師による教育が不適切 mauvais である場合には、一定の手続きを遵守しつつ、また一定の規定に従いつつ、その教師の歩みを止める権利、彼を沈黙の刑に処す権利すらも委ねられていなければならない。この原則を理解することは容易である。なぜなら、われわれは、濫用を防止するために用いるべきさまざまな処置を、ア・プリオリに余すことなく描くことができるなどとは毛頭思っていないからである。
Bravo! でしょ。
オーブリは、別の箇所でも、「公衆 le public の、とりわけ家庭の存在感 présence は、教師にとっての刺激剤であると同時に、時として制動機ですらある」と述べている。
上記二つの古典に示されている構想はいずれも、教育活動の専門的自由の確保方途と、その活動が公教育として営まれることの正統性の調達方途という二つを焦点にもつ楕円を描ききっている。
ちなみに、マルクスは1875年、ドイツ労働者党のいわゆるゴータ綱領草案を批判するなかで次のように述べている。
「国家による国民教育」はまったく不適当だ。一般的な法律によって国民学校の財源、教員の資格や授業科目を規定すること、またアメリカ合衆国でおこなわれているように、国家の視学官がこれらの法規の実行を監督することと、国家を国民教育者にすることとは、まったく別のことである!
これを三つ目の古典とする。
今日のわが国の教育改革(批判)論者たちの誰のどの論調と、上に紹介した三つの古典的見解のどれとが親戚関係にあるか、ワープロ等を用いて40字×40行で論じなさい。
( <楕円幻想> のパテントは花田清輝『復興期の精神』(冷めやすい私のこれまでのところ一番長持ちしている愛読書です。)にあります。ここに書いたこととの関連性はぜんぜんありません。)