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● バーンスティンの <再文脈化> から 2004-07-30
B. バーンスティン『<教育>の社会学理論』(久冨義之ほか訳)第2章

<教育>言説とは「さまざまな種類のスキルとそれらの相互関係の言説」(教授言説 instructional discourse)と「社会秩序の言説」(規制言説 regulative discourse)を「埋め込んだルール」である[p.82]。
<教育>言説 = 
教授言説
規制言説
<教育>言説は「それによって他の(諸)言説が領有され、その選択的な伝達と獲得のために互いに特定の関係を取り結ぶための原理である。<教育>言説は諸言説の流通と再秩序化の原理である。この意味でそれは、言説というよりはむしろ原理である」[p.83]。
言説生産活動としての物理学はこの装置によって「学校の物理学」という「想像上の物理学」へと「移行」する[p.84]。
この移行は「再文脈化」と名づけられている。つまり、「<教育>言説は再文脈化原理によって構築される。この原理はそれ自身の秩序を構成するために他の諸言説を選択的に充当し、再配置し、再焦点化し、関係づけるものである。この意味で、<教育>言説はそれが再文脈化するどんな諸言説によってもアイデンティファイされない」[pp.84-85]。
かくして、<教育>言説は「専門的な<教育>事項を選択し創出する」[p.82]。
予想されるように、バーンスティンにとって「基本的なのは、規制言説が支配的な言説であるという点である」[p.85]。規制言説は「教授言説それ自身の内的秩序をも提供する」[p.87]。すなわち、規制言説は選択をおこなうのみならず、物理学と他の教科との関係や期待される獲得の率なども規制言説によって決まる。

「教師の専門性」や「教育の科学性」、就中「教育的価値」といった用語に馴染んでいるわれわれにとってはさほど新奇な議論ではない。ただ決定的に異なるのは、この再文脈化ルールを構成要素としてもつ<教育>装置が「イデオロギー的に自由ではない」とされている点である。このポイントを敷衍する。

バーンスティンの「再文脈化原理は再文脈化の領域と、再文脈化機能をもった担い手とを創出する」[p.85]。このことは、<教育>装置が「装置の領有をめぐる闘争のアリーナをつくり出す」[p.91]ということを含意している。

このように、<教育>言説が可算名詞であるのにたいして、教育的価値を中核として成立する教育は基本的にはつねに単数形でというか不加算名詞であることが求められる。たしかに、教育的価値論においても複数の教育目的・政策の成立する余地は認められてはいる。しかし、方法的価値を含む教育的価値にかんしては、「どんな教育目的を志向する政策によっても、おかし難い価値として認められなければ、そこには近代的な意味での教育そのものが成立しない」(勝田著作集6, p.440)とされる。

バーンスティンの議論において、<教育>装置が闘争のアリーナを形成する要因は再文脈化それ自体の内にある。
その言説がそのオリジナルな舞台から<教育>言説としてその新しい位置づけへと動くとき、そこに変形が生じる。変形が生じる理由は、一つの言説が一つの位置から他の位置へと動くたびに、そこにイデオロギーが働く空間が生じるからである。[p.84]
ここで「イデオロギー的」とは「中立的ではない」もしくは「ある本質的な規制機能をもつ」という意味で用いられている。このことをバーンスティンは言語装置を例にとって説明している。すなわち、「言語装置内に組み込まれた諸ルールと分類システム」は「そこからの産出物を規制している」。たとえば、「「習熟 mastery」という語をよりジェンダー化されていない言葉に取り換える」ことの困難は、「ジェンダーにたいする反対」を困難にする、と[pp.74-75]。

勝田との異同をはっきりさせるために、今度は勝田の議論を見てみる。彼は遺著「政治と教育と文化」で次のように問う。
一方の側で「非教育的な教育」というものと、他方の側でそういうものとは、対立、抗争し合うだけのことではないのか、したがって、教育には、党派性(あるいは階級性)があるだけで、非教育的教育とか、教育的教育などというものはないのではないのか。[pp.244-245]
答えは否である。理由は、教育には固有の論理があるから。万年筆の「論理」。筆記具には万年筆のほかに、
・・・鉛筆、ポールペン、毛筆さらに、さまざまなマジック・インクの類がある。よい万年筆というのは、使用者がどんな字を書くかによってその「よさ」の価値がきまる。日本字を書くためには、やはり国産の万年筆にかぎると主張するひとの書き方は、いや、パーカーはアメリカ製だが、これ以上書き易いものはないという人間の書き方とはちがうにきまっている。しかし、そうかといって、そのことで万年筆が、書く手段としての物件という一般概念に解消してしまうことはない。
 多少気障ないい方をすれば万年筆の構造と機能にかかわる論理は、ボールペンのそれとも、鉛筆のそれともちがう。その構造と機能は、万年筆を万年筆たらしめているものであり、よし、あし、はもっぱら、書く器具あるいは手段としての物件ではあるが、インクの出方、ペン先のすべり、書字の定着の度合い、インクを入れる操作の簡単さ、それに万年筆らしい形とその感触(在室の表面の性質と重量)などがその固有の価値を支える性質として、前提される。これらの構造と機能にかかわる万年筆の「論理」は他の書く手段あるいは器材に重なるところもあるが、固有であるのはその全体の存在においてという意味でそうなのである。同じく形の問題にしても鉛筆のそれとはちがう。
 引例はその仕方で、私たちの思考を歪め易いので、余り深入りしない。ただ、ここでこういう例を持ち出し、教育の論理なるものを政治の手段としてみてもなおそれに固有なものとして追求できるということを明らかにしたかったためである。[pp.245-246]
とりあえずわかりやすい例である。教育にはその構造と機能にかかわる固有の論理がある、ということだ。

「とりあえず」と書いたのは、ほんとのとこ私にはよくわかってないからだ。勝田のこの論文は初めから何だかムードがちがった。この部分を読んだときにはハイデガーが思い浮かんだ。で、貧しい想像力を駆使して『授業料の解像力』の26ページに当て推量を書いておいた。四分六でハズレだと思っていたので、指摘されたら削るつもりだったが、誰からも指摘されなかったので残った。多分、いや確実に、誰にも通じていないと思う。暇な人は『存在と時間』の第15節あたりと読み比べてみてください。

実は、バーンスティンも似たような問題関心から出発している。
知識の<教育>化の基底には一般的原理があるのかどうか、<教育>コミュニケーションを可能にするものは何であるのか、といった私の問題関心からすれば、これまでの研究のほとんどは、運ばれるもの、あるいは中継されるもののみを対象とし、中継それ自体がいうにして構成されているのかをとらえていない。我々には<教育>メッセージとその制度的、イデオロギー的基礎についての研究はあるが、メッセージを可能にする社会的文法についての研究は多くない。[p.72]
この問題関心のもとに得られたのが三つのルール(その一つが再文脈化ルール、他の二つは配分ルールと評価ルール)を構成要素としてもつ<教育>装置というアイディアである。

勝田はしかし、バーンスティンのように、直接には問題に取り組まない。勝田のここでの関心は教育の固有性をシルエットとして示唆することにとどまっている。万年筆の一般概念は、モンブラン、パイロット、細字用、太字用、横書き用、楽譜用等の万年筆を覆うのかもしれないが、その成否はこうした教育固有の論理にしたがう多様な教育を生成する文法をどこから調達してくるかにかかっている。教育の概念を「一定の価値体系によって選択決定」[p.245]するというスタンスをいったん括弧に入れているからである。その作業に勝田が着手するつもりだったかどうかはわからない。いずれにせよ、「社会統制の過程あるいは作用」としての教育をめぐる勝田の議論についての次のような評価は、少なくとも彼の晩年の思考にかんしては、いささかわかりやすすぎると思う。
勝田の教育学的思惟は・・・この機能をただちに教化としての社会統制と創造的な社会統制とに分化させてしまう。・・・こうした区別が、教育的価値という基準に照らしてなされたことはいうまでもないだろう。・・・勝田は社会統制の働きの中に、教育的なものと非教育的なものという固定的な区別を持ち込んだのである。・・・だが、こうした概念構成は、教育という多義的な事実を、事実そのものに即して認識しようとする道を閉ざしてしまうのではないだろうか。(森田尚人「教育の概念と教育学の方法」『教育学年報』1, p.18)

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