(久しぶりにキーボードを買ったので試運転がてら打ってみる。)
東京本郷の東大赤門をくぐるとすぐ左手に教育学部が入っている図書館団地の一辺が見える。そこの三階フロアに教育社会学研究室があり、ここから今わが国の教育のあり方に向けて数々のメッセージが発信され続けている。大方の同意を得られると思うが、その質と量と説得力の強度と影響力の及ぶ範囲においてそれらは「奇跡」に近い。同じフロアに同居している教育行政学研究室が改組消滅と聞くと感慨はいっそう深いものがある。が、感慨にふけってばかりもいれらないので、この「奇跡」をどう受けとめるのか、自問してみる。
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広田照幸による問題へのアプローチはもはやお馴染みのとおりである。たとえば近著『<愛国心>のゆくえ』(17--18)より
では、「望ましいかどうか」をどのように考えていけばよいのだろうか。何か超越的な価値観や理念に照らして「望ましいかどうか」を評価するのは、立場によって偏りが出てくる。さまざまなイデオロギーの対立群の中で、特定の場所から他のイデオロギーを撃つ、といういうふうな議論になってしまうからである。/私はもっとプラグマティックにこの問題を考えてみたい。もし改正案のような方向で教育基本法が改正されたとすると、日本の教育や社会にどういうインパクトを与えるのだろうか。・・・/・・・・/・・・仮に教育基本法が現在の見直しの方向で改正されたとすると、改正推進論者の多くが思いもかけない帰結が生じるのではないかということを論じたい。
な〜んか魅力的。でもどうして?
この魅力はその議論が醸し出す「クールヘッドでウォームハート」とか「ディーセント」といった「構え」以上のものに由来している。私の見るところ、端的に広田のアプローチは功利主義とその魅力を共有している。以下は、W.キムリッカ『新版 現代政治理論』(訳書17--18)の講義用メモより
- 2-1-1 功利主義の魅力(二つ)の第一
その目標は、神や魂その他疑わしい形而上学的実体の存在に依存しない
- 2-1-2 第一の魅力について(続き)
最初のセンテンスは翻訳が不正確: 言いたいことは、
「功利主義は道徳のために何か高尚なものを前提とすることはない」
人間の福祉や効用の追求が、社会の全成員のために、公平になされることを要求する
ただそれだけ!
福祉=効用については後で詳しく
- 2-1-3 第二の魅力: 帰結主義
ある行為や政策が実際に善をもたらすか否かの検証を要請する
事態が改善する: 道徳的に善
誰かが不利益を被る: 道徳的に誤り
- 2-1-4 帰結主義(続き)
帰結主義は道徳とそれ以外の領域との違いを説明する
悪い結果を指摘できないのに同性愛を「不適切」であると言うのは道徳的批評ではない
- 2-1-5 帰結主義(続き)
道徳的に正しい答えをみつける=福祉における変化を測る
権威や偏見や迷信に対する強力な武器
これに続けてキムリッカは次のように述べる。
このように、功利主義には二つの魅力がある。一つは、人間の福利こそが重要であるというわれわれの直観に合致すること。もうひとつは、道徳規則は人間の福利への帰結によって検証されなければならないというわれわれの直観に合致することである。この二点を受け入れるならば、功利主義はほとんど不可避であるようにみえる。・・・/私は、この二つの核心的直観には同意したい。功利主義に挑戦する方法があるとしても、これらの直観を否定するという形態は採らないであろう。この挑戦が成功するためには、功利主義以外の理論のほうが、これら二つの直観をうまく説明できることを示さなければならないであろう。
広田の議論が果たして功利主義的であるかどうかについては精査が必要なのでここでは扱わない。が、教育においては、とりわけ教育対象に近い親や教師の行為についての判断をめぐっては、功利主義的立場をとることは有力な選択肢の一つとなりうるであろう。実際、
Laura M. Purdyは
In Their Best Interest? The Case against Equal Rights for Children で、フェミニズムと功利主義を結合しようという一風変わった試みを展開している。ついでながら、彼女の議論が具体的提案を含めて広田のそれと驚くほどに通っているのも確かだ。
ただ、包括的な理論としての功利主義は独自の分配論・平等論を含んでいる。
Purdyの本では分配は議論されていないし、広田の分配にかんする議論はどう見ても功利主義的ではない。ここいらあたりが広田の読者としての私のフロンティアということになろうか。
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周知の通り、分配論・平等論については苅谷剛彦が精力的な仕事をしている。というか、彼は当代におけるその道のチャンピオンである。もちろん、彼の守備範囲は多岐に渡っており、知名度も影響力も抜群。その彼がNHKの「クローズアップ現代」ではなく、民放のワイドショーに出演すれば世論の風向きはもっと大きく変わるはずと確信しているのだが。。。
閑話休題
苅谷の平等論において、比較される単位は集団であり、着目される変数は調査等によって明らかになった事実である。このアプローチは、彼自身が明らかにした戦後日本における教育平等論の特質「個人ベースで情緒的」と対をなしている。言うまでもなく、「個人ベースで情緒的」という発見された「事実」は、そして「能力主義的差別」という欧米スタンダードから見れば形容矛盾と映る不思議な観念は、マイナスに評価されている。
まず、「個人ベース」について。
たしかに、欧米では問題は階層や人種といった集団間に同定され解決策が模索されてきた。苅谷は彼我の議論の違いにたいする違和感を各所で表明している。それらを読むとき、私は、この相違が優劣評価に滑り落ちているような漠然とした印象を覚えていた。そういう経緯で10年ほど前に某大学で集中講義をしたときのレジュメに次のように書いたことがある(その後このレジュメの一部を「
その後の機会均等論争」として公開した)。
ストライクは、自らの機会均等構想とガットマンの描く「平等化」とのあいだには「重大な相違点」が存在しており、「この相違点は、何が道徳的にレレヴァントな特性であり、何が道徳的にイレレヴァントな特性であるとみなされるべきなのか、ということにかかわっている」と言う [Strike op cit.: 160]。上の引用にあるように、ガットマンは、個人の「コントロールの及ばない」ものをイレレヴァントとみなしており、自然的および環境的要因がこれに相当する。ところが、学業に影響を及ぼす可能性をもつ要因を思い描いてみると、すべて何らかの自然的・環境的要因であるとういことに想到する。
そこでストライクのガットマン批判は次のようになる。
そうすると、ガットマンのコンセプションは結果的に、成就に影響を及ぼす全要因は道徳的にイレレヴァントであるということになる。したがって、成就におけるあらゆる差異は機会均等を侵害するということになる。何が道徳的にイレレヴァントとみなされるのかということについてのこうしたコンセプションを所与とするならば、機会均等の要求は、道徳的にイレレヴァントな諸特性によって特徴づけられる諸集団間における教育的同等性 (educational parity) ではなく、諸個人間の教育的同等性への要求へといたってしまう。……明らかに、そうした要求は実現不可能である。[ibid.: 160]
ここで浮き彫りにされているストライクの機会均等の背後に潜む想定とガットマンのそれ ── 正確にはガットマンが「平等化」を退けるときのそれ ── との相違点は、とりわけわが国の研究者にとっては興味深いものと映るだろう。集団ベースか個人ベースか?
その後、欧米におけるこの分野の議論を眺めていると、集団間の問題との関連は保持されつつ、個人ベースの不平等にも大きな関心が払われるようになってきているようにみえる。たとえば、定評ある
Blackwell Companions to Philosophyシリーズの
A Companion to the Philosophy of Educationで
"Educational Equality and Justice"の項目を担当している
Harry Brighouseは次のように述べている(471)。
ふつうの語法でも公共政策においても、教育の平等は予め画定された諸集団間の関係性として論議されるのが通例である。・・・しかし、これらの集団(男女、人種集団など)間の諸々の不平等に気をつける理由があるとするならば、それは、そうした不平等が、集団を構成している諸個人間の不平等をあらわしているからである。教育の平等は、それが強力な正義原理であるかぎりは、すべての個々人の他のすべての個々人に対する位置取りにかかわっている。
公共政策の観点からは、集団間の不平等に関心を寄せるのは筋が通っている。なぜなら、集団の成員であるということが現実世界における諸々の不利と相関しているということがしばしばであるからだ。したがって、これら集団ベースの不平等に取り組むことは、諸個人間の不平等に取り組むための効果的な方法であるということがわかる。・・・われわれの歴史とわれわれの現在における人種の役割にかんしてわれわれはいろいろなことを知っている。そのいろいろなことのゆえに、人種集団間の不平等は、諸個人間に不正義が存在しているのではないかと疑わせる理由をわれわれに与えるのである。
本章は、諸個人間の関係性としての教育の平等、ならびにこの平等と正義の関連について論じる。
してみれば、個人ベースの議論を、個人ベースであるということを理由に棄却してしまうことには慎重であらねばなるまい。むしろ、素朴ではあるけれども、わが国の社会構成上の特徴(人種という明確な輪郭をもったバッファをもたなかったとか)からいわば生まれるべくして生まれたこの発想に、分節的な形を与えるに足る理論を持たなかったことの不幸を憾みたい気がする。
「情緒的」について。
事実に基づかない「不平等感」「差別感」の底の浅さが批判される。しかしながら、その感覚の経験的基盤がまったくなかったわけでも、その基盤を評価する規範的基準がまったく的はずれであったわけでもなかろう。「能力以外の要素で差別的取り扱いをしない」というのが標準的な機会均等概念である。実際には能力以外の要素によってライフコースに違いが生じているのに、その現実を見ないというのは、それはそれで小さくはない問題である。けれども、「能力主義的差別」を問題視した戦後日本の大衆教育社会の住人たちは、必ずしも標準的な機会均等概念を実現しようと思っていたわけではなく、能力差による処遇の違い(これは事実である)と「平等」という理念の響きとの間にはどこかしら一貫性が欠けていると直観したのではないだろうか。ここでも、如何せん、教育学者たちにはこの直観を表現する言語を提供するだけのセンスがあまりにも乏しかった。
以上、苅谷が発見した事実には二通りの解釈が成り立つ可能性があるのでは、ということを言いたかった。念のため言っておくと、私は苅谷の解釈に賛成である。ただ、もうひとつの解釈が可能であるということ、さらに、二つの解釈は対立しないということ、つまり、発見された事実は二筋の問題シーケンスを含んでおり、それらはワンセットであるということ、そういうことを言いたかっただけである。ここいらあたりが苅谷の読者としての私のフロンティアということになろうか。