先日の記事「
no-nonsense 宣言再び」にコメントを(1通だけ)いただいたので(感謝)、返信を兼ねて・・・
研究の醍醐味は人によりさまざまであろうが、他人の説(それが通説であればなおよし)を否定する快楽に勝るものはないということについては大方の賛同を得られるのではないかと思う。
研究に限らずとも、自分以外のものを否定することは一般に自己肯定感を促進するのではあるまいか。
もちろん、自己否定という言葉もあるにはあるが、これとて、自己否定の遂行者は自己を否定する自己にたいする肯定感に浸されているとみなすことができよう。
それに、否定は、しばしば、その行為にポジティブな装いを与えるという(逆説的な)効果を果たすように思う。
……調べてみると……のやうな実証的な本には、この辞世のことはさつぱり出て来ない。つまり一首は……フィクションなのだらう。が、わたしとしては別に困らない。たとへさうだとしても……といふことが問題となるにすぎない……
どうだろう。嫌みなほどに強気な人物が透けて見えてくる(丸谷才一である)。
またまた懐古調で恐縮だが、わたしが初めて否定について突っ込んで考えたのは授業料の研究を始めた頃であった。授業料の不在は授業料制を否定しているのだろうかという素朴な疑問がそのきっかけである。公刊した論文の中ではゼロ記号とか大野晋なんかを援用したけれども、佐藤信夫『レトリック感覚』でたまたま目にした次の一節はかなり決定的だったと今にして思う(このへんに書いていることに関連する記事 「
事実は語るか?」 2003-09-12)。
とにかくたんなる事実はだまさない。それは肯定だの否定だのを越えて、ただ存在するだけだから。しかし、たんなる存在を、私たちは類比的に、《肯定》と呼ぶことができる。そういうことばづかいを採用してみるなら、事実には肯定だけがあって否定がない。だから事実は(記号化しないかぎり)虚偽を語ることができない。身ぶりが否定の表現に苦労するのは、それがまだすこぶる事実に近く、じゅうぶんに記号化していないからであろう。
たんなる事実にはひたすら肯定しかないということに手こずった人間が、工夫したひとつの手だては、アリバイである。そこに《存在しなかった》ことを表現しえない事実の世界では、苦肉の策として他の場所に《存在した》ことをアリバイとして採用する。他の肯定をもって否定の代用とする。
排中律(または二値原理)が支配する世界。科学的な証明も(素粒子物理学となると別だろうが)概ねこれと似たようなことをおこなっているといえようか。しかしながら、『レトリック感覚』が興味深いのその先である。
……アリバイと緩叙法は、構造が、ちょうど陽画と陰画のように、逆なのだ。
……アリバイが肯定によって否定をあらわすのは、きわめて事実的に、いわば想像力を拒絶することによって、である。が、緩叙法は、言語的に否定することによって、すなわち想像力を発動させることによってなりたつのである。
……
「うれしい」と言うとき、ひとはたんにうれしいのであろう。それに対して、「かなしくはない」と言う表現は、うれしさのかたわらに、存在しないかなしみの映像を成立させる。
排他的ではあるけれども対称的ではないというところか。言語的な否定操作には過剰な何かがプログラムされている。そういえば大岡昇平も『成城だより』にこんなことを記している。
ルソー、ブレイクにても無垢なる概念は「経験」或いは「文明」の対蹠物なり。常にアンチにして、否定概念なれば相手を包み込むことができる。
もう少し先に進もう。
-(-1) = 1 二値原理の世界ではこうなる。否定の否定は肯定。二重否定の法則。
だが、言説の世界では少々ちがった具合になる。
たとえば、「反=反相対主義」という象徴的な題目をもつ講演(『解釈人類学と反=反相対主義』所収)のなかでクリフォード・ギアツは次のように述べている。
……中絶に対する法的規制に反対する人は、中絶はすばらしいと考え、中絶率さえ上がれば福祉が向上する、という意味で中絶賛成なのではないと思います。「反=反中絶論者」になるのはまったく別の理由によるわけで、これについては繰り返し説明する必要はないでしょう。上のような枠組みでは二重否定が特殊な使われ方をしていますが、そこにこの修辞の意味があります。この二重否定は、拒まれている対象を受け入れることなく、拒んでいるものを拒むことを可能にします。これが反相対主義について私が試みたいことです。
わたしが前の記事(no-nonsense 宣言再び)のなかで書いた「あるべき新しい社会関係を(教育の名のもとに)構想すること」という提案の含意がかつての規範的教育論を擁護しようとするものでないということについてはもはや誤解はないと思うが、では、わたしの立場は反=反本質主義であり、ということは反相対主義であり、ギアツのそれの裏返しなのかという疑問はありえよう。
わたしは次のようなギアツの主張を支持する。
反相対主義に対して異議申し立てが必要なのは、知識についての〈すべてはものの見方〉的なアプローチ、あるいは道徳についての〈郷に入らば〉的なアプローチが拒絶されているからではなく、文化性を越えるところに道徳性を位置づけ文化性も道徳性もさらに越えるところに知性を位置づけることによってのみ、そうしたアプローチを退けることができると思い込んでいるからです。今となってはこれは不可能になりました。そうならざるを得ない種類のことなのですから。故郷の真理を失いたくないのなら、はじめから故郷にとどまっていればよかったのです。
また、次の主張にも同感である。
過去には順調に私たちを今あるところに至らしめたが、今ではどうもうまくゆかず手詰まりに陥るばかり、といったことに拘泥しない強い決意こそが、科学を前進させると私は考えています。
ただ、携わっている「科学」の種類がちがえば、抱えている課題や困難もちがってこよう。わたしの先の提案は、同じ記事の前半に再掲した文章のなかにある「『本質のリスクを進んで引き受ける』(スピヴァック)という『戦略』」に乗っかったものである。
最近各所で話題の宮台・北田による対談本のキーワード「あえて」「アイロニー」も基本はそういう戦略を言い表すために選ばれているのだろうと思う。「アイロニカルにベタ」はたんなる「ベタ」ではもちろんないし、「あえて」も自己エクスキューズを担保するために用いられているわけではなかろう。
とりあえず、ここまで。