【書きかけ。まとまった時間が取れたときに、まだその気が失せてなければ続きを書くかもしれない。】
旧聞だが、今年の正月三日の「朝日新聞」の教育欄に「就学援助4年で4割増 給食費など東京・大阪4人に1人」という見出しの記事が掲載された。
格差社会到来の文脈を意識したものだが、私の目にとまったのは、「修学旅行費や給食費は、保護者が目的外に使ってしまうのを防ぐため、校長管理の口座に直接、振り込んでいる」との記述。
知り合いの高校教師たちから、「奨学金を親が使い込んで授業料未納。いくら言っても埒が明かない。でも卒業できないのはかわいそう。仕方がないので、校長 and/or 教頭 and/or 担任 and/or 事務長がポケットマネーで肩代わり」的な話はつねづね聞かされていた。校長口座振り込みという手があったか。でも、給食費援助ならまだしも、使途多様な奨学金だとさすがにマズイだろうな、などなど。
そうしたら、最近またもや、似たような記事を見かけた(「朝日」2006-03-02)。
厚生労働省は4月から、生活保護費のうちアパートなどの家賃を支給する「住宅扶助」について、自治体の福祉事務所が、生活保護の受給者に代わって家主に直接家賃を払える「代理納付」の制度を導入することを決めた。自治体から、家賃滞納の苦情が福祉事務所に寄せられて困るとの声が出ているため、見直すことにした。
住宅扶助は現在、受給者に対して実費を給付している。これを家賃の支払いに充てずに別の生活費として使ってしまい、家賃を滞納して家主とトラブルになるケースが一部であるという。このため、福祉事務所が家主に直接家賃を支払う仕組みを導入することにした。
これらのエピソードに表現されている論点を、ベーシック・インカム basic income: BI とそれたいする批判を手がかりに考えてみる。(BI について詳しくは、トニー・フィッツパトリック『自由と保障 ― ベーシック・インカム論争』勁草書房 2005 を参照されたし。)
「福祉社会の未来」を特集に組んでいる『思想』3 月号のなかで宮本太郎「ポスト福祉国家のガバナンス 新しい政治的対抗」が BI に好意的な姿勢を示している。「ポスト福祉国家」「脱生産主義」「「定常型社会」への移行」・・・
こうしたなかでは、社会的包摂の場を労働市場に限定せず、人々が労働市場の外部に、教育や訓練、育児や介護、さらには休養のために滞留できる条件を提供することが重要になる。「完全雇用社会full-employment society」に代えて、すべての市民が何らかの社会的活動に参加しているという「完全参加社会full-engagement society」が構想される所以である。この完全参加社会は、解雇に対する防御手段として企業単位でおこなわれてきたワークシェアリングを、社会全体でより攻勢的に展開していくことに繋がろう。ここで攻勢的という意味は、市民が労働市場の外にある時間が、個人の能力向上、地域の社会問題の解決などに積極的に活かされ、長期的にみた場合の経済的効率も確保できるということである。
こうした条件を創出していく手段として、今日最も注目に値するアイデアはベーシックインカムであろう。ベーシックインカムは、ワークフェアやアクティベーションとは対照的に、人々に就労を義務づけることなく、無条件で最低限の所得保障をおこなおうとする考え方である。これを徹底して推し進めると、既存の社会保障の体系、すなわち、児童手当、失業手当、年金等を一律の最低保障給付に置き換えることも想定される。ただし、ベーシックインカムは多様な社会ビジョンと連携しうるのであり、単純な形式的平等主義とイコールではない。
第一にそれは、労働市場の内外での流動化を高め、併せて市民に能力開発の機会を提供するという点では、ある種の経済合理性をもった構想である。脱生産主義の方向を示すものではあっても、けっして反生産主義ではない。第二に、ベーシックインカムがシステムとして実現する社会的流動性は、個人からみると、ライフサイクルに就労、教育・訓練、ケアをいかに組み込むかを含めて、人生設計の自由度が大幅に増すことを意味する。ヴァン・パライスが、ベーシックインカムの構想を「真のリバタリアニズム」と呼ぶのは、こうしたリソースを伴った自由の拡がりを最大限に評価するからである。第三に、ベーシックインカムは、官僚制の恣意的な介入を排除することにつながる。
なかなかに魅力的なアイディアだが、BI の難点もさまざまに指摘されている。たとえば、雑誌
Dissent の最新号 (Winter 2006) に載っている
Barbara R. Bergman, "Reducing Inequality: Merit Goods vs. Income Grants"は、基本所得補助 BIG 構想に対して次のような異議を唱える。
サービス提供 vs かなりの額の現金援助の問題を論じるにさいしては、「メリット財」の概念が有用である。
われわれは次のような場合にその財やサービスを「メリット財」と呼ぶ。すなわち (a) それを利用できる立場にある者は誰でも皆、それを入手すべきである、とわれわれが確信する場合。(b) それが政府によって提供されなければ、それを独力では取得しない、もしくは取得できないであろう人々が存在する場合。
すべての人々がある財を入手すべきだという決断は、社会にとって予想される便益にもとづくこともあれば、人道主義的な考慮にもとづく、あるいはその両方の何らかの組み合わせにもとづくこともあるだろう。
家計収入に比して高価であるような財のケースにおいては、少なくとも人口のある割合の人々はその優先度の高い財を十分な量と質とにおいて自身の所得から購入しないであろうという懸念がきわめてしばしば生じるであろう。また、健康な、あるいは安全な、あるいは思慮深いことをやらないという選択を下す所帯もあるだろうというパターナリスティックな判断からも懸念が生じるであろう。
仮に BIG が実施されれば人々の所得が増えるわけだが、それは、同じコストをかけてメリット財を提供するということと同じことにはならないであろう。
わかりやすい例は医療ケアである。健康保険に年間一人当たり 5000 ドルのコストがかかるとするならば、普遍的な健康保険の提供によって誰でも治療を受けられるようになるであろう。
その代わりに、各人に 5000 ドルずつ、あるいはそれ以上を与えたとしても、同じことを実現することはできないであろう。なぜなら、別の目的のためにその金を使ってしまう者もいるだろうから。
ある特定の財なりサービスなりをメリット財と宣言したら、そのときわれわれは、暗黙の裡に、課税可能であるならば、政府は、直接的にであれ、ヴァウチャー制度によってであれ、それを提供すべきだと言っていることになる。もちろ、課税上限がどの程度か、どんな財がメリット財の部類に位置づけれらる仁値するのかといったことは、明示的に論じられる必要がある。異なる個人は異なるメリット財のリストをもっているであろう。
BI が脚光を浴びるようになってまだ日が浅いけれども、それがもたらす諸論点は、すでにわれわれの周囲に現実的な接点をもっているということを確認しておこう。
Berger が対抗項に立てているメリット財の姉妹概念「メリット欲求 merit wants」が『岩波小辞典 経済学』に載っているので引いておく。
6 歳児が何かを買おうとするときには、そばにいてその決定に干渉したほうがよいと一般に考えられているのと同じように、われわれはおとなの決定の一部にたいしても、温情的干渉の立場で、あるいは推奨あるいは抑制の手段を講じたほうがよいとみなすばあいがある。たとえばカナダでは、児童扶養手当は父親にではなく母親に手渡されることになっているが、これは、そのすこしでも多くがビールよりもミルクに使われるように期待してのことであって、この例でミルクはメリット欲求とみなされる。また、困窮者への生活援助も、現金で渡すと飲酒に使われる可能性があるというので、無料病院サービスのようなメリット欲求を実物で供与する方針がとられたりする。
こうした立場を森村進は「愚民観」として切って捨てる(「「みんなのもの」は誰のもの?」安彦・谷本編『公共性の哲学を学ぶ人のために』世界思想社 2004)。
ただしそこで森村の書き方(鈴村興太郎の発言の援用)には要注意。森村はこう書く。
この(鈴村の)解釈によれば、「価値財」の概念は、個々人の利益に還元できない公共的な価値の存在を想定していることになるが、「標準的な経済学のなかでは座りの悪い概念とされている」そうなので、やはり標準的な経済学はあらゆる財の価値を個々人の利益に還元していると言えよう。(森村 27)
当該部分にかかわる鈴村の発言は次のとおり。
経済学のなかで公共財と関連してしばしば議論されているが、内容的には非常に違う概念に、価値欲求ないし価値財という概念があります。財政学者リチャード・マスグレイブが考案して導入したこの概念は、人々の個人的選好に還元して基礎付けはできないが、社会的な価値の観点から提供されることに公共的な意義がある財とされています。重要な概念だと私は思いますが、標準的な経済学のなかでは座りの悪い概念とされていることも事実です。この概念の理論的基礎付けを行うことは、現状ではまだオープン・クエスチョンだと私は思います。公共【善】の観念を深めるうえでも、マスグレイブの価値欲求なしい価値財という概念は重要性をもつ筈だと思っています。(佐々木・金編『公共哲学 6 経済からみた公私問題』172)
森村の引用のうしろの部分にむしろ惹かれる。
メリット財は「標準的な経済学のなかでは座りの悪い概念」なのかもしれないけれど、標準的な経済学の教科書にも載っているところをみると、無視できるものではなさそうである。
経済学のほとんど分野では、自らの利益を最もかなえるもの、あるいは自分に満足や楽しみを与えてくれるものを最もよく知っているのは個人である(消費者主権の原則)ということが前提とされている。あなたが派手な赤シャツを着たければ、それはまったく自由である。あなたが自分のウォーキング・ステレオでロック・ミュージックを聞いて楽しんでもそれはいっこうにかまわない。メリット財の議論においてこうした一般的な原理が適用されないのは、アルコール、麻薬、絶滅の危機に瀕した生物種や子供の教育のような財が問題とされる場合である。(教育場合には、子供は自分で決定することはできないのだから、消費者主権の問題というよりもむしろだれが子供のために決定をしてやるか、という問題である)。政府の介入を求める根拠は非経済的なものではあるが、それを問題にしなければ政府の役割ついて十分に議論をすることはできないのである。(スティグリッツ『ミクロ経済学』660-661)
公共財に比してメリット財の座りが悪いと言われるのは、その議論が「外部性についての議論を超えて」しまっており、「政府の介入を求める根拠は非経済的なもの」であるからである(スティグリッツ)。
西部邁の次の主張もその線に沿って読むことがあるいは可能。
財政理論の基礎を築いたといわれる R. マスグレイヴを引き合いにしていうと、エコノミストは人間の欲望をプライヴェイト・ウォント(私的欲望)、ソーシャル・ウォント(社会的欲望)そしてメリット・ウォント(価値欲望)の三種に分かつ。しかしこの分類法は……個人主義的誤謬の産物なのである。/経済学のいう社会的欲望は、私的欲望の変種にすぎない。つまり、私的欲望の対象である財(およびサーヴィス)を当人がアプロプリエイト(占有)できないので、その財をめぐって、他者とのあいだにコレクティヴ・コンサムプション(集合消費)が行われる、いいかえればその意味でのエクスターナル・エフェクト(外部効果)が生じる、それが社会的欲望だとされている。/経済学のいう社会的欲望はけっして公的欲望には属さない。/価値欲望は個人主義からは絶対に導出されない。(西部「21 世紀の経済学」『Voice』2001 年 8 月号、安彦「「公共性」をめぐって何が争点であり、何が論点であるべきか」前掲『学ぶ人のために』所収より重引)
ついでに、西部のこの主張を最近の「政治教育」推奨論と接続することもあるいは可能。
さらについでに、ロールズは彼の正義の二原理と卓越主義を二者択一に描いているが、そのかぎりでは西部もロールズに同意するであろう。
ついでのついでに、ロールズの政府部門論はマスグレイヴ財政学を下敷きにしている。
(とりあえずここまで)