教員評価制度について某所で発表した。以下、苦し紛れのその発表の一部をコントラスト強めに。
評価によって意欲を高め、資質を向上させ、児童生徒に還元する。政策側が描く筋書き。
オリジナルは教育改革国民会議?
「個々の教師の意欲や努力を認め、良い点を伸ばし、効果が上がるように、教師の評価をその待遇などに反映させる。」
この会議の段階ではまだ「意欲や努力」と「効果」との相関・調和について楽観視されていた節がある。
それにたいして、楽観論が後景に退いた今日的段階(「努力」と「実績」とが必ずしも相関しないとの基本認識)においては、しないからこそ、処遇の公正を期すためにも「意欲や努力」に報いるべしと主張される。
「頑張っている先生は(成果の如何にかかわらず)評価してあげようよ」
飲み屋談義と切って捨てるにはしのびない庶民的直観。
[ 能力 × 努力 = 業績 ] が通用しない世界
注意すべきは「不公正(感)が意欲を殺ぐ」という認識。
高い評価、それに連動した好ましい処遇がインセンティヴ効果を生む(馬の鼻先にニンジン)とのみ想定されているわけでは必ずしもない。
「新自由主義的」と一括りして済むとも思われない。
敵を戯画化・矮小化してそれを叩くくらいなら何もしない方がまし。
もうひとつ。「努力」云々論には、教師としての「存在の承認」欲求とつながる要素が認められる。
「公正確保」と「存在承認」のしるしとして「報酬」問題を考えてみる。
そのような「報酬」なら、それが「意欲」を生成・駆動するのだと認めてもよい。
金銭報酬・ポストは有限であるから、ゼロサム・ゲームとならざるをえない。
実質的なマイナス評価の存在を予め前提とするのは目的と矛盾をきたす。
顕彰(表彰)はどうか?
コストが(あまり)かからないから一見すると資源は無限と映る。
「一部の人だけが光を浴びるのではなくて、一生懸命に頑張っている人みんなに光が当たるような、そういう評価制度を望む」
何を規準に「頑張った」と認定するのかという問題については今は措く(いかなる規準を設けようと)。
それなりに「頑張っている」人が多いという前提のもとに、被顕彰者を増やせば、顕彰のもつ選別効果が高まり全域化する。
→ 半数を顕彰すれば、残りの半数はダメ教師
→ 100 人中 99 人を顕彰すれば、残りの一人がダメ教師
→ 100 人を顕彰すれば、顕彰の意味がなくなる
被顕彰者は少なければ少ないほどよさそう。
かくして原則論としては行き詰まる。
やりなおし。
仮説:教師は「公正確保」と「存在承認」のしるしとして「報酬」を受け取る。
金銭やポストや顕彰は条件を満たさない。
仮説を捨てるか? もう少し粘ってみる。
「意欲」は「評価」されるに値するのか(される必要があるのか)?
教師は誰から何を受け取っているのか?
ここからリスタート。
一般に、人格的・投入的な基準の代表的なものとみなされる「意欲」は情意考課的であるとして(とくに被評価側からは)忌避される傾向がある。しかしながら、分野教育においては否応なくインプット要素への着目が求められる。
ヒントとして:
A. ハーシュマンの議論(Hirschmann 1985)は、生産へのインプットを次の三種類のファクターに区別する。第一は使えば減る「稀少な資源」。第二は能力やスキル。これは使えば使うほどその活用可能性が高まる。そして第三は道徳性とか市民精神とか信頼といったいわば「道徳的資源」― ハーシュマンはこれを「愛」で代表させている ― である。「愛」が稀少資源でないということは一応首肯できる。では「愛」に増減はないのだろうか。
彼は、「社会が機能するために、『愛』にできるだけ負担をかけないような動機づけの制度的な環境・パターンを創り出すべし」という主張と、「ある社会システム ― たとえば資本主義 ― は道徳性や公共精神なしでもやっていけるのだと皆を納得させてしまったら、そのシステムは自らの生存可能性を掘り崩すことになるだろう」という主張を引き合いに出し、それぞれが要所を衝いていると認める。つまり「愛」は不可欠だが頼りすぎてもいけない。
愛、慈善、市民精神は、固定した供給量をもつ稀少なファクターでもなければ、実行にともなって改良され無限に伸び縮みするスキルや能力のように働くわけでもない。そうではなく、むしろそれらは、複雑・複合的なふるまいをあらわしている。それらは、支配的な経済体制によって適切に実行され訴えられないときには萎縮し、かといって過度に説教され頼りにされるときには自らを稀少資源にしてしまうだろう。
文脈を移して言い換える。
「意欲」は「評価」されないときには萎縮し、かといって過度に「評価」されるときには自らを稀少資源にしてしまうだろう。
「意欲」評価はインセンティヴ効果を発揮しうるけれども、ゼロサム・ゲームに陥る危険性もある。
境界線をどこに引けばいいのかの一般解が与えられるわけではないにしろ、こうすることによって事態の理解は進む。
かくして「意欲」は(も)「評価」されるに値する(される必要がある)。
そこで次に「教師は誰から何を受け取っているのか?」
当日の発表では次のように述べた。
上記のサイクルで教師は生徒から何を得ているか?
→ 信頼
その報酬付与にさいして「公正」は確保されているか?
→ ・・・Yes
それは教師の「存在承認」となっているか?
→ Yes
今度はクリア。
われながらいまいち。
「愛」をテーマにもうすこし。
「愛」についての質問(たとえば、それはヴェーバー流の「プロテスタンティズム」とどう違うのかとか、それは精神論だとか)が出れば、「ケア」にまつわり立岩真也が書いていること(『弱くある自由へ』青土社 2000, pp.352--353)を援軍に持ち出そうと思っていたが、与えられていた時間内に脳内処理できなかったのでやめた。
似ているが違う。違うけれども(部分的に対偶をとったりして)加工を施せば使えるのか?
第二に、実際を美化しすぎているという感覚があるだろう。例えば関係を麗しく描く時に、実際の親子関係はそんなものではないと言われる。たしかにいつでもどこでもそんな絵に描いたような関係があったりするのではない。けれども、だからといって麗しいものを否定することもない。どのくらいのものとして、どこに位置づけるかということだと思う。・・・
第三に、第一点・第二点両方に関連し、「ケア」の賞揚がその担い手に負荷を与えている、親切に接することを強いるものだという指摘がある。「感情労働」を巡る議論を想起するとよい(・・・)。このような把握、現実に対してここで述べたことはどのような位置にあるか。もう少し複雑であることを述べた。まず求められているものは様々であること、少なくとも利用者からは求められていない場合もあることを指摘した。次に供給者の側については、感情を強要され搾取されているという側面だけでなく、それを利用している側面があることを述べた。その上で、感情の発動がつねに自然の発露である、あるべきであるという浪漫主義には立たないが、しかし感情を管理、発動しなくてはならないことは、時には、働く人にとって面倒であるとともに、受け手にとっても迷惑なことであろうとは考える。感情にまつわる負荷が大きくなりすぎないこと、集中することによって飽和しときには無感覚になることでしか対応できないようなことにならないように、負荷を拡散できるようにすることを述べた。もちろんこれ自体が「感情管理」の一つであると言うことは可能である。そう呼ぶならならそれはかまわない。管理は必要だと考える。
第四に、「無償性」に結びつけられ、「不払い」を正当化してしまうことに対する危惧があるだろう。愛ゆえに、贈与として、無償の行ないとして行なったりすることはある。このこと自体を否定することはない。またその人に「行ないたい」という動機があるなら、それに乗じてまわりの人が放置しておくことはできる。しかしこのことは、無償の行ないとしてなされる「べきである」ことを意味しない(このことについて[1996c]で述べた)。放置できることは、放置すべきである、放置することがよいことであることを意味せず、それが不当であるなら(このことを第2節で述べた)、個々の自発的な思いがあったとしても、それを邪魔しないように、社会はすべき負担を負担すべきなのである。〔不払いを性別分業の不当性の根拠とする主張については[1994]で検討した。〕
・・・ここまで。時間に余裕があっても結局 う〜ん 処理できない。
明らかに思考の粘度というか持久力が落ちてきている。
これも加齢が順調に進んでいる証拠か。
昔は割と高いレベルで思考活動が持続しプラトー状態を保っていたのに(このレトロ調が加齢の典型的症状)、このごろは浸食が進んで山地にりピークが出現してきた。見た目の瞬発力。ケッ!
以下、ルグィンのエッセイ「スペース・クローン」より(『ゲド戦記』がジブリ化されるみたいですね)。
大部分の人は、「人生の変わり目」という古くからの言い回しを「更年期」という医学用語の婉曲表現であると考えているであろう。しかし、目下、その変わり目を体験中の私は、それは逆さまなのではないかしらと思いはじめている。「人生の変わり目」という言葉はあまりにもそっけなく、あまりにも現実的である。チャイムが知らせてくれるちょっとした休止(ポーズ)の後に、ことは以前と同じように運びますよ、という「メノ・ポーズ」のほうがさり気なくて、ほっとさせる言葉である。
三十代のころはじめてこれを読んで以来ひそかに「メノ・ポーズ」にある種「あこがれ」に近い気持ちを抱いてきた。というのも、彼女が言うには、
男性はひとたび歩きはじめたら、二度目のチャンスは全くない。彼らは二度と決して変わることはない。それは彼らの欠損であって、私たちとは無縁である。どうしてそのような不毛を模倣しなければならないのか?
肉体が更年期のような変化の見事な合図を送っているときに、変わらず若さを保とうと努力することは確かに勇気あることだ。だが、それは四十五歳か五十歳の女性よりも二十歳の若者にふさわしい、愚かしく、自己犠牲的な勇気である。スポーツマンは若くして、月桂樹を戴きながら死ぬがいい。パープルハート勲章は兵士に取らせるがいい。女性は年老いて、白髪を頭に抱き、そして人間の心を持って死なせようではないか。
今や、少なくとも生理学的には「メノ・ポーズ」は女の「特権」ではなくなった(男のそれは女のそれほど劇的ではないかもしれないけれど)。とにもかくにもあこがれが手の届くところにやってきた。
が、依然としてつまらないところが気になる。
ジーンズに T シャツ、マックハウスで買った 3900 円のジャケットで発表し、飛行機が駐機場に停止してもキャビン・アテンダントに促されるまで『ジョジョ(スティール・ボール・ラン)』を読み続けるこの私は「愚かしく、自己犠牲的な勇気」を振るっているすぎないのだろうか。やってる「ことは以前と同じように」運んでいるのだが。
これでいいのか。どこか勘違いしてるような気もする。ですね、やっぱり。