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● 刑事訴訟法239条2項/ハーシュマン+1/免疫系? 2006-07-29
別件を調べていてたまたま開いたら北海道町村会のサイトに行き当たった。
北海道町村会(前身は1922年創立の北海道町村長会、戦後地方自治法の下で1948年に改称)は近年道内自治体の「法務支援」に力を入れているらしい。
いよいよ、地方分権が実施の段階を迎え、町村で処理している全ての事務について法律の範囲内で条例制定が可能となり、町村の法務部門の役割は、大きく変わり独自の自治立法能力、法令解釈能力、訴訟対応能力が求められています。
北海道町村会では、平成14年4月1日から法務支援室を設置し、当面の間町村が法務面で自立するための支援事業を実施することとしましたのでぜひご利用下さい。(http://houmu.h-chosonkai.gr.jp/houmutoha/houmutoha.htm)
その「法務事例相談集」のなかに「公務員の告発義務とその方式について」(http://houmu.h-chosonkai.gr.jp/jireisyuu/kaitou77.htm)という項目がある。
職員がその職務を遂行している過程で、刑法や各個別法令で規定している犯則行為の事実を発見しましたが、捜査機関に申告すべきかどうか内部で意見が分かれています。
ついては、次の点について教示願いたい。
(1) 職員は捜査機関に対して告発する義務を負うか。
(2) 告発する場合、誰の名前で告発すべきか。
(3) 告発する場合、被疑者を特定しなければならないか。
刑事告発が権利であることは知っていたが、公務員においては義務とされているということは不覚にも知らなかった。教職課程教員として数年前まで教育法規を扱っていたが、そのさい教員の服務規程について話すときにも、地方公務員法、教育職員特例法、教育職員免許法あたりでおわっていた。
官吏又は公吏がその職務を行うことにより犯罪があると思料するときは告発しなければならない。(刑訴法239条2項)
以下「事例相談集」の「回答」から。
公務員が職務執行に際し犯罪事実を発見した場合は、必ず告発しなければならないものでしょうか。
説は分かれており、第239条第2項の規定を訓示規定とするものもありますが、通説はこれを義務規定としています。
しかしながら、この通説においても、告発するか否かについて職務上正当と考えられる程度の裁量まで許さないとするものではないというのが一般的な考え方となっています。
ここで問題となるのが、職務上正当か否かの判断ですが、この点については「例えば、公立中学校の生活指導担当の教諭が、喫煙をしている生徒を見つけたが、いまだ生活指導の余地ありとして、教育上の見地から告発をしないことは、事情によっては『職務上正当』と認められるであろう。これに対し、本来捜査機関によって判断されるべき事由、例えば、被疑者の再犯のおそれ、改悛の情の有無等を判断して、これによって告発するか否かを決めたり、その他自己の職務と関係のない事由によってこれを判断したりすることは、許されない」ものと解されています(地方行政実務の法律相談上巻(ぎょうせい)93〜95p)。
最後に引用されている実務マニュアルの前段部分、被告発の可能性がもしあるとするならば、それは喫煙をする中学生ではなく、むしろ、生活指導担当の教諭のほうかもしれない。なぜなら、未成年者喫煙禁止法が「処罰」の対象としているのは「親権者等」と「販売者」であり、同法が喫煙中学生に課す「処分」としての「喫煙ノ為ニ所持スル煙草及器具ヲ没収ス」は事実上おそらくすでに執行済みであろうからである。しかしまあこんなことはたいしたことではない。

気になるのは、違法行為を働く可能性があり、したがって告発の対象となる可能性のある人物の想定例として登場してきているのが生徒であり、生徒のみであるという点である。

教師の犯罪の実数がどれだけかは知らない。一説によると一般公務員の100倍を超えるとか。この比率の根拠を見つけられなかったので何とも言えない。ひょっとしたら、処分件数と処分事由を数え上げたら、実は一般公務員並みだったということになるかもしれない。だがそんなことはどうでもいい。ここで言いたいのは多いとか少ないとかいうことではない。

公表値と実数とが一致すると考える人はまずいないだろう。後者のほうが多いと推測するのが健全だ。実際、この推測を裏づける証言を得る機会はこういう仕事をしていると結構ある。
なのに、行政が教員を告発したという話は聞いたことがあるけれど、教員が教員を告発したという話はついぞ耳にしたことがない。
犯人(と被害者)以外の全員が犯罪事実を知らない(完全犯罪)はありえない(たぶん)。
したがって、俗な言い方をすると、それは「隠蔽」されているということになろう。
隠蔽の事実が意味するところは、刑事訴訟法第239条第2項的には、義務懈怠である。
かくして、同じ条項にもとづいて、今度は被告発者ならぬ非告発者が告発の対象となる。
流行の言葉ではこういう事態をリフレクシブと形容するのだろうか。

未検証の独断だが、この事態はこの国において一般化している(1)。
「頭に来る」「こんなことでいいのか」と怒る教員はたくさんいる。
そして、事態のもつリフレクシブな性格はそうした教員たちの内面に葛藤をもたらす。

ここから先をどう書くかはちと難しい。というのも、この事態は上記(1)によりわたしの中にも現存するからだ(官吏でも公吏でもないことに感謝はするけれど)。
どうする?
転進(撤退を意味する旧日本陸軍用語)する。
お行儀のいい研究をしたければ思いつくものはいくつかある。

第一はもちろん法律学的なそれである。
たとえば、服務の宣誓
私は、ここに、主権が国民に存することを認める日本国憲法を尊重し、且つ、擁護することを固く誓います。/私は、地方自治の本旨を体するとともに公務を民主的且つ能率的に運営すべき責務を深く自覚し、全体の奉仕者として誠実且つ公正に職務を遂行することを固く誓います。/年月日/氏名 印
を実質化するための法論理とか制度構想とか。

こうした研究が醸すある種の坊主臭さが好みでなく、事実をクールに分析し説明してみせたければ、こういうのはどうだろう(またまたハーシュマンの援用で恐縮だが)。
これ以下は、大塚昌克「退出、告発、忠誠、および諦念 ― 移住者問題と東ドイツの崩壊」(『早稲田政治経済学雑誌』No.361, 2005, 2-12)を参考に書いてます。
例の Exit-Voice 理論。
現状では、いずれのコストも高くつくので、教員の一般的な反応パターンは neither Exit nor Voice となる。ハーシュマンの例示では全体主義的な一党独裁政党とかテロリスト集団が同タイプに属す。
通常の組織では Exit か Voice のどちらかが二者択一的に優勢である。シーソーみたいなもの。
ではどちらにも敏感でない組織はどうなるか。破局への道をたどる。
市場競争下に置かれる企業はそうなるかもしれない。しかし学校のように破局せず命長らえる組織もある。
だから競争させればいいという主張も出てくる。が、それはまた別の話。
大塚はハーシュマンの退出・告発・忠誠に加えて、もうひとつの反応パターンとして「諦念」を提案する。
筆者は退出、告発および忠誠という行動選択肢のほかに、もう1つの選択肢を提案する。その選択肢とは現状維持のまま何の行動もとらないことである。筆者はこれを「諦念」と名づける。しかしながらこの現状維持は安定的ではなく、いささか不安定である。というのもこの何もしないという選択肢は、それを採用している人が現状に満足しているわけではなく、不満であるにもかかわらず、それを解決する行動を採用できない場合にやむなくとる選択肢であるからである。したがって、たとえば退出や告発を選択する費用が低くなるかあるいは便益が十分高くなるならば、諦念を選択していた人びとは、バンドワゴン的にそれらの選択肢を採用する可能性が高いと想定される。(大塚, 8-9)
この種の問題群の処理はおそらくゲーム理論の得意とするところだろう。
大塚はこれを歴史分析(?)に応用しようとしている。
これが第一のタイプの研究と結びつけられれば、それはたぶんジャンル政策研究に振り分けられることになるのだろう。

当然ながら政策研究から抜け落ちるものもある。
そこでさらに三つ目の研究の可能性。
ここであれこれ捏ねている問題が個人の内面にかかわるということはたしかである。それも多分に行動選択にかかわる、したがってある種規範的な色彩も帯びることになる。自己の内面の行動規範に直に触れるこの手の話は苦手。
もっとさりげなく(テメーのことを棚に上げも下げもせず)この話題に参加する方法はないかなどと虫のいいことを昔から思っており、少し以前に免疫系が流行ったとき、それを読んで何とかなく引っかかるものを感じたのだが、それはたぶんその議論の提示する脳神経系とは別のもうひとつの免疫系の自己に手触り感があったこと、そして、自己と非自己との境界の曖昧さを、それも形而下的に取り扱っていたからだろう。つまり、テメーのことを棚に上げも下げもせず非超越論的にそれについて語る可能性。たとえば、心理学的に葛藤とか馴化(馴致)とか表現される状態は免疫系の言葉で別様に表現されうるように思われました。
ですが、へたすりゃトンデモ研究になってしまう危険性があるのでおすすめしません。
社会現象を相手にする研究者にとって、フィジカルな世界を扱う学問の誘惑は強いものがあります。進化生物学の取り込みを持ち出すまでもなく、最近では、たんに技法やメタファーとしてそれを採用するという段階を超えつつあるように見えます。
免疫学の泰斗である多田富雄先生ご自身つぎのようにおっしゃっています。
物価上昇や犯罪増加に対する「馴れ」も、ひと皮むけば強力な抵抗力の裏返しです。そのかくされた力をもう一度掘り返すにはどうしたらよいか。それもまた免疫を学びながら考えるべきことの一つのように思います。(多田富雄・南伸坊『免疫学個人授業』新潮社, 1997 の「あとがき」)
惹かれますが、わたしとしては、今のところ、枯渇しがちな想像力にとっての有力な刺激剤として、SF小説と同じような受け止め方で接しようと思っています。そのほうが無難です。それに、たとえ使えなくても、SFと同じように理解度五分でも十分に楽しめますし。

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