私のテレビ視聴歴は三期に分けられる。
まず、わが家にテレビがやって来た小学生のときから中学卒業まで九州で視聴した。
その後、十数年はテレビ無し生活。居住地はおもに東京都下。
結婚後テレビ復活、北海道に職を得て今日までテレビ視聴。
現在の視聴状況は アニメ>天気予報>ドラマ=バラエティ=洋画/ニュース
このように、私は九州と北海道でテレビを見てきたし、見ている。
その経験から NHK の、とくにニュースについて、長年ずっと感じてきたことを書いてみたい。
ある種の偏りについて書くことになる。といっても、政治的あるいは思想的?なそれについてではなく、もっとプリミティブなことについて書く。
全国ニュースで流れるたとえば台風のニュース、あるいは降雪のニュース、あれを見る九州の視聴者、北海道の視聴者は「アレアレあんな程度で大騒ぎだよ」と感じる。ある種の滑稽さ(笑っちゃう)がそこには含まれている。しかし他方では、「もっともっとひどいウチらのケース」が流れないことに、何となく寂しさを、ときにはやり場のない憤りに似た気持ちを、そして自らの存在の軽さにたいする諦念を抱くこともある。
全国ニュースは、「全国」ニュースであると同時に「ローカル」ニュースでもあるという単純明快な事実。ローカルを全国と見せているのは、もちろん権力(広義)のもつ場所性である。脱中心性もへったくれもない。そこには物質的な根拠がたしかに存在している。だからそれを「全国」ニュースと称しても間違いではない。
首都圏(京阪神地区でも東海地区でもいい)に生まれ育ち、首都圏を本拠地に生活し、旅行や出張先として、あるいは父親のキャリア・アップ・パスへの同行としてしか「地方」を体験しない人がこのことに気づかないとは言わないけれど、少なくとも彼女/彼らが体感的な反応としてそれを実感する機会をもつことは稀であろう。
ここには一種の非対称性が認められる。試みにそれを記述してみよう。
- 彼女/彼らが知らないことをわれわれは知っている。
- もちろん、彼女/彼らはわれわれが知らないことを知っている。
- だが、「われわれが知らないことを彼女/彼らが知っている」ということを知る(思い知る)機会をわれわれはもっているのに、彼女/彼らは「彼女/彼らが知らないことをわれわれが知っている」ということを知る機会をもっていない。
この限りでは、認知的(この言葉づかいでいいのかしら? よくわかりませんが)には、われわれのほうが彼女/彼らに対して優位に立っている。そのはずだ。そのうえさらに
- 「『われわれが知らないことを彼女/彼らが知っている』ということを知る(思い知る)機会をわれわれはもっているのに、彼女/彼らは『彼女/彼らが知らないことをわれわれが知っている』ということを知る機会をもっていない」ということをもわれわれは知ってしまう。
しかしながら、ローカルニュースを全国ニュースとして見せられることによって生じるこの高階の認知は、現状では、われわれの存在の軽さ・社会関係上の劣位を引き出す効果を発揮しており、結果として、無邪気な彼女/彼らの非有責的優位を補強する傾向にある。
景気が回復傾向にあるとテレビから明るいニュースが流れている最中、この地の有効求人倍率は正社員に限れば、0.29 倍である。
「そうだよね、その数字は知らなかったけど、企業の雇用戦略によって、非正規労働、フリーターが増えているんだよね」と彼女/彼らは言うかもしれない。
だが、この地ではその非正規労働市場すらも冷えきっているのであるのであるのだ。この地の非正規労働市場から弾かれた若者たちはどこへ行くのか。ホンシュウに行く。たとえば、景気回復の優等県である愛知に。必ずしもト○タが直接雇うわけではない。周旋業者経由である。かくして「出稼ぎフリーター」(必ずしも吟味を経ていないアバウトな用語法ですが)の一群が誕生する。21世紀版自動車絶望工場は出稼ぎフリーターが主人公となる。
「全国」の景気回復を支えているのは不景気にあえぐわれわれの子どもたちなのだ。こう表現するのも躊躇われるほどのなんという皮肉。
(ここまでの11行分は「北海道新聞」2006-4-11〜16 掲載の「出稼ぎフリーター」による)
前にもいつか書いたけれど、鈴木宗男みたいな人物が膨大な票を集める北海道とは、なんて保守的、なんて民度が低い、と言って済ませられるほど事態は単純じゃない。
もちろん鈴木宗男じゃマズいと思う。しかし、かといって彼女/彼らの傀儡でも困るし。
わたしのささやかな希望。対称性の回復。そのために・・・以下省略