- Harry Brighouse and Adam Swift
- " Equality, Priority, and Positional Goods "
- Ethics 116 (April 2006): 471--497
( これを読む前にまず 橋本祐子 「福祉国家と平等主義 ― 批判的考察 ― 」 『同志社法学』
55巻1号(2003), 91-143 を読むが吉 )
さて、平等は比較を前提にする。私がもっている量とレレヴァントな他者であるあなたがもっている量を比べる。平等主義は相対的。
厳密な平等主義はたとえば10:5よりも5:5を支持する(レベリング・ダウン)。これはひねくれていると優先主義者は批判する(レベリング・ダウン批判)。
これにたいして絶対的な観点が重要という見方。私がどれだけもっているか(絶対的)。絶対的に最悪な人が優先的に分配を受けるべきというのが優先主義。でも "absolutely worse(worst) off" は比べていないのか。謎。反実仮想 "otherwise would be" と比べている。とにかく他人とは比べない。
ここで位置財の登場。
「位置財とは、その所有者にとって、それらの財の絶対的な価値が、当該財の分配においてそれら所有者が占める位置に ― 当該財にかんする相対的な立ち位置に ― 依存する財である。」
位置財は相対的と絶対的を接合するというのが著者たちの着眼。
たとえば、教育は位置的アスペクトを帯びている(実は別のアスペクトも帯びているのだが:後述)ので位置財。
修士号は相対的位置 → その労働市場的価値(Vm)。
学士号は相対的位置 → その労働市場的価値(Vb)。
平等主義者は Vm と Vb の差をなくしたい。どうする。修士号を廃止する。これはレベリング・ダウン:低位平準化。
優先主義者はとにかく Vb を引き上げたい。そのために学士号所有者の相対的位置を引き上げようとする。すると同時に修士号所有者のほうが下がってくる(前提:ゼロサム状況)のかな。これも一種のレベリング・ダウン。
「財が位置的であるかぎり、相対的な量が絶対的な量を決定する。このことは、妬みとか、相対的なものや比較への不合理な没頭とかとは無関係である。そして、そのことは、平等主義者だけではなく優先主義者もそうした財にかんしてはレベル・ダウンする理由を有するであろう、ということを意味する。」
位置財にかんして平等な分配が求められる理由の一つが示された。
公正な競争という魅力的なアイディア経由でも類似の結論に至る。
裕福な親がわが子のために極上の教育を買い与え、わが子の市場価値を高める。
これは不公正。競技場を自分有利に傾けるようなもの。
よって、自分の金をわが子の教育的有利さに変換することを禁止。レベリング・ダウン。
全国一律の公立学校制度。私立は廃止。
もちろん実際には教育の位置的アスペクトは完全には除去されない。
皆に十分なチャンスがあればそれでいいのだ(十分主義:かつての教育のシビルミニマム論に近い?)。
ただし、著者たちによれば、こうした試みは、実は「公正」追求に発するものではない。
「多少とも平等に届かないチャンスが実は公正なチャンスなのだという考えによって動機づけられているというよりは、むしろ、他の価値の観点から見た場合の利得と引き換えに、公正の観点から見た場合の損失を受け入れることを厭わないという意欲によって動機づけられているのかもしれない。」
ポイント:
特定の財にかんするレベリング・ダウンは、
(1) その財にかんして誰の境遇も向上させることはできない。
(2) その財の価値にかんして誰かの境遇を向上させる可能性がある。
たとえば、修士号の廃止は、学士号所有者の教育を改善しないが、その競争的価値を高める。
位置財の諸類型
顕在的に・競争的に・位置的:たとえば教育
潜在的に・競争的に・位置的:たとえば健康
「健康が実は、報酬が相対的に高いもしくは低い職業的地位を獲得するために子どもたちがもっている差異的なチャンスの一つの決定因であるとするならば、それは競争的な、したがって位置的な様相を帯びていると言える。私の健康が私にとって有する価値は、他の人々がどの程度健康であるかに実際に依存している。盲者の国では片眼が王である。これは潜在的な位置財の一例である。」
潜在的に・非競争的に・位置的
「その不平等な分配がそれを少なくしかもたない人々に悪影響 adverse effects を及ぼすが、そのさいの理由が、それらの財が与えるいかなる競争的な有利さからも独立しているような財が存在する(たとえば、幸福や健康や自尊や社会的包摂に影響を及ぼす限りでの物質的な善き生)。」
(このへんにスキャンロンからの引用あり。読んでいて連想したこと。ハヤカワSF文庫のル・グィン『所有せざる人々』。二重惑星アナレスとウラスを舞台にしたその物語のひねりの一つはウラスが敷いている非所有制。書名もそれにちなんでいる。と思いきや原題は The Dispossessed だから「所有されざる人々」。誰が所有しているのか? 強いて言うなら所有制が所有している。してみると Dispossessed は「憑きものが落ちた」とでも訳そうか。笠井潔と読み比べてみるのも一興。)
位置財は想像以上に多い。
レベリング・ダウンのための、ということは事実上の平等化指向の、しかし平等主義的ではない(優先主義的/十分主義的)筋立ての有効範囲は思いのほか広い。
【位置財の非位置的な価値(本来的 intrinsic な価値)】
教育のおかげでわれわれは豊かになることができるし、そのことは必ずしも労働市場におけるわれわれの競争相手とは関係がない。(482)
仮に、レベリング・ダウンの結果として、ある貧しい親の子どもが、数学や歴史の知識はちょっとだけ劣るけれども、労働市場では裕福な親の子どもたちといい勝負をするとしたら、果たして彼女の境遇は改善されたのだろうか?
それとも、彼女の教育の非位置的な価値における絶対的な欠損は、その教育の競争的価値における増分よりも大きいのだろうか?(482)
教育の非競争的な便益は道具的な便益とは異なる分配上の関心を惹起する。
前者に関するレベリング・ダウンを非平等主義的に支持するなどということはありえない。
それでもやはり、ある人の教育の相対量が他の財を獲得するチャンスに影響を与える以上、教育資源の分配において教育の非位置的なアスペクトから位置的なアスペクトを完全に解き放つことは不可能である。
教育システムを設計することに責任を負っている政策立案者は、位置的な便益と非位置的な便益の分配を統べる異なる原理のどちらにより重きを置くかについて決断を下すに際して、両者の相対的な重要性を比較衡量する必要がある。(483)
これだけでも難しい。
教育資源の上限に余裕があり、投下量とその便益とが一人の個人にかんして比例関係にあると仮定したとしても、同一の投下量が異なる諸個人に差異的な便益をもたらすという事情が普遍的に観察され、そしてその事情こそが教育に本来的なものであるとみなされうるからには、その困難の度合いは倍加する。
教育資源の等価量とその教育の「価値」との関係が不定であるというのは、私の授業料研究の論点の一つではありました。
【あらゆることを考慮したうえで all things considered 】
ある財にかんするレベリング・ダウンは、他の財にかんするある人々の状況を絶対的に改善する可能性がある。
だが、ある財にかんしてある人々の状況を絶対的に改善するということは、必ずしもあらゆる事を考慮に入れたうえで彼女/彼らの状況をよりよく保つというわけではない。
人々があらゆることを考慮したうえでそうでありうるのと同程度によい境遇にあるかどうかに注意をそそがず、何らかの特定の財にかんして人々がそうである必要があるよりも悪い境遇にあるかどうかのほうをに焦点を絞るというのは、いったいどうして?
実のところ、もしも、あらゆることを考慮すれば、不公正に処遇されている人々にたいして不公正な競争が便益をもたらすとするならば、たとえそうすることが公正な競争という価値によって要請される場合であったとしても、どうしてわれわれはレベリング・ダウンに賛成すべきなのだろう?
要するに、不公正な競争が歓迎されないまでも許容されうる可能性を著者たちは検討する。
ロールズの正義原理によれば、公正な機会均等は格差原理に辞書的に優先する。その含意。
最も不利な境遇にある人々のあらゆることを考慮したうえでの善き生は、同程度の才能/努力の割り当てをもつ人々の間で特定の財 ― 地位への機会 ― を平等に分配するために妥協させられる。(484)
ロールズ自身、後年この辞書的優先性については留保を表明している。
格差原理に対する公正な機会の平等の辞書的な優先性は強すぎるものであり、より弱い優先性か、より弱い形態の機会原理のほうが好ましいだろう。それどころか公正としての正義そのものの基本的な諸観念により合致しているだろうと考える人もいる。目下のところ私には、ここで何が最善なのかはわからないので、私の不確かさを書き留めておくだけにとどめる。機会原理をいかにして特定し、どれほどの重みを与えるかは大いに難しい問題であり、そうした何からの対案のほうが好ましいかもしれない。( ロールズ『公正としての正義 再説』岩波書店、358ページの註44 )
しかしながら、「あらゆることを考慮してみた場合に、不公正なもしくは不平等な競争が相対的に悪い境遇にある人々の助けになる」例として著者たちが持ち出しているのは、お馴染みの金持ちの生産インセンティヴに発する悪名高い(?)トリクルダウンである。ほかに何か考えつかなかったのか。
【認識様態的 epistemic 】
不公正な不平等が許容されうるかもしれないもうひとつのケース。
政治的インプットは競争的な位置財。だから政治的自由は基本的自由のなかでも特別に重要(ロールズ)。
だが、非競争的な文脈に置き換えて考えることも可能。
しかし、デービッド・エストルンド David Estlund は、最近の論文の中で、こうした見解に異議を唱えている。なぜなら彼は政治を競争的な企てではなく認識様態的 epistemic な企てと考えているからである。
重要なのは、人々が平等なインプットをもっていることではなく、民主的プロセスが何らかの独立した道徳的基準に準拠して正しいとされる意思決定に到達する傾向をもつことである。
他の事情が等しければ、インプットの平等は認識様態的な質をたしかに改善する傾向をもつけれども、他の事情がつねに等しいとは限らないし、インプットの正味量もまた重要である。(486)
かくして、ここで論じているシナリオの中では、文脈は競争的であるとともに非競争的であるような様相をもっている。
政治的過程への参加者たちは、自分たちは競争に携わっているのだと考え、自分たちにはインプットが相対的に欠けている(あるいは、自分たちには影響力が絶対的に欠けている)から不公正に不利に扱われているのだと判断する。
議論に勝つという筋で話が進む限りは、あるいは、自分の選好もしくはインタレストを集計過程において公正に登録させたという限りにおいては、彼女/彼らはそのことにかんして正しいかもしれない。
しかし、意思決定手続きを評価する適切な方法が、その手続きを議論に勝つための競争や集計手続きとみなすことではなく、政治的意思決定を独立的に正しいものにする手段とみなすことだとするならば、その場合には、レレヴァントな仮定にもとづけば、不平等からもたらされる便益が存在しうるということになる。
なかなかアブナイ議論をやっている。
いずれにしても、不公正が正当化されるかもしれない二つのケースが示唆されたことになる。
「あらゆることを考慮したうえで」と「認識様態的」とに共通な代替基準をあえて探るならば、帰結主義、効率性ということになろうか?
このへんの話の筋は厚生経済学の唱える仮説的補償原理にまつわるそれと部分的に似ていなくもない(とりあえず奥野・鈴村『ミクロ経済学II』の348ページ付近など)。
【短い復習】
著者たちの主張はヒネリが利いている。
レベリング・ダウン批判は優先主義から平等主義に浴びせられるのだが、財が位置的様相を帯びていれば、優先主義的根拠にもとづいてレベリング・ダウンが積極的に選択される可能性がある。
【レベリング・ダウン or 因果関係遮断】
XにかんするAの優越的位置を下げるとYにかんするBの絶対的位置が改善されるということは、AがBよりもXを多くもっているということと、BがYをもっているということとの間に存する何らかの因果関係に依存している。(488)
だから、この因果関係に何らかの操作を加えることができれば、結果的に位置的様相の強度を変えることが可能。
たとえば、賃金率を一律にするとか、くじ引きで職を配分するとか・・・
そうすれば因果連鎖は弱まり(消滅し?)、レベル・ダウンしなくても済むかもしれない。
そのうえ、
教育が非位置的なアスペクトを有している以上、そして、他の事情が等しければ、他人がどれだけの教育を受けるかにかかわりなく、より多くの教育を得ることは人々にとって望ましいことであるのだから、上に挙げた代案の一つが、教育供給をレベル・ダウンすることよりも選好される可能性があるだろう。
レベリング・ダウンと因果関係遮断のどちらの戦略を採用するか ― 要考慮要素
- 相対的な実行可能性(ひょっとしたら、政治的に受け入れられないからだけかも)
- 政策コスト(誰がコストを負うか)
- 相対的な位置がその位置の価値もしくは他の財の所有にかんする絶対的な位置に影響を及ぼすメカニズム
【インセンティヴと正義】
「分配が正義にかなっている」というときの二通りの言い方
- その状況においてあらゆることを考慮したうえで all things considered in the ciecumstances
- 包括的に comprehensively (その分配を批判する道徳的根拠は存在しない)
ロールズはどちらの側か?
彼の見解によれば、諸個人がそれらの制度によって規定されているルールに則ってゲームを演じる限り、また諸制度そのものが正義にかなっている限り、正義の観点からは、それ以上達成されるべきものは何もない。
われわれの区別の観点からいえば、この理路は、
状況によってあらゆることを考慮したうえでの all-things-considered-in-the-circumstances 正当化を包括的な正当化と同義とみなしているか、それとも、包括的な正当化において呼び出された追加的な検討事項を正義の問題にとってはイレレヴァントであるとみなしているかのどちらかである。
したがって、不公正であるにもかかわらずある特定の状況のもとで正当化される justified-in-the-circumstances-despite-being-unfair とわれわれがみなす競争においてもたらされる有利さを正義にもとるとみなすのは、(この理路にもとづくならば)不自然であるということになる。(492)
それたいして著者たちは?
われわれは、それらの有利さは状況次第では正当化されるとみなす。なぜなら、あらゆることを考慮してみれば最も悪い境遇にある人々に便益をもたらすからである。
しかし、それらは正義にもとるともみなす。なぜなら、仮に、相対的に有利な境遇にある諸個人が異なる動機づけをもち異なる行為を追求したならば、その便益をもたらすために不公正な競争が必要とされるというのは確かではなくなるからである。
言い換えれば、個人の動機づけや行為を正義に関する主張の適切な焦点であるとみなす点において、われわれはコーエンの側につく。(492)
つまり、社会の基本構造(分配原理)が同じであっても、その内部の人々の動機づけや行為が異なれば、事態は当然変わってくる。基本構造がすで正義にかなっているならば、問題は正義以後・以外のそれとして位置づけられるのか? 著者たちはそうは見ない。著者たちはそれを正義にレレヴァントな事態として語ろうとしているわけだ。
【オックスフォードに寄付する篤志家の例で考える】
オックスフォードのあるカレッジが、財政的理由により、1年に10人しか学生を受け入れることができない。そこで、希望している課程においてもっともうまくやれそうな志願者を厳密に見定めようとする。ある裕福な篤志家が低所得の学生のために二人分の席のために資金提供を申し出る。ただし、彼女は条件として、自分の息子のための三人目の席を追加するようカレッジに要請する。もちろん、その三人目の席のためにも資金を提供する。
ここで、彼女の息子が、学業成績のみを見れば上位13人には入っていないけれども、十分な学力をもっており、彼がそこにいるからといって他の12人の教育に迷惑がかかるようなことはない、としよう。
さらに、第三者への影響はまったくないと仮定しよう(ありそうもないことだが)。(493)
境遇が悪化する者はいない。だが機会均等は損なわれている。
さて、この受贈は正当化されるか?
優先主義的な根拠にもとづくなら、あらゆることを考慮に入れてそのことはおそらく正当化されうるだろう。しかし、それが包括的に正当化されることはありえない。相対的に有利でない人々に便益を与える条件として機会の不平等の受けいれを必要とするような状況は異議を招く状況である。(494)
著者たちは、インセンティヴ評価、より正確にはインセンティヴ要求の道徳的評価基準の問題へと踏み込む。
- 行為者中心的な特権(あるリーズナブルな程度まで諸個人が自己利益を追求するのは当然だ)
- その拡張(近親者の利益の追求まで拡張)
したがって、ある行為者が合法・正統な偏愛の範囲内で行為している場合、
- その行為の結果として生じる分配状況が不公正であると判断されるケースはありうるが、
- 不公正に行為していると判断を下すのは問題を孕んでいる。
さらに、「インセンティヴを求めることを可能にしている制度的仕組みの正当化についての行為者の知識」もここに絡んでくる。ただたんに他人よりも多くを得ようとするよりも、わたしが多くを得れば、もっとも少ない人のインプットを増加させることになる、この社会はそのように仕組まれているということを知っていて、より多くを得ようとする場合のほうが、異議を呼ぶ度合いは少ない。ただし、公正の法廷では依然として異義ありの状態である。
【結論というかまとめ】
面倒になってきたので 496-497 を訳出しておきます。
財が競争的に位置的であるかぎりは、優先主義者と平等主義者は、分配は平等であるべきだという点で一致することになりそうだ。というのも、もっとも少なくしかもたない人々の便益に供される財の総量を増加させる余地は存在しないからである。
最高の職あるいはエリート大学の席の供給は、少なくともレレヴァントな期間においては数が固定されていると仮定するならば、裕福に生まれた子どもたちのチャンスを減退させずに、貧困な子どもたちがそうした財を獲得するチャンスを改善することはできない。
貧しい子どもたちによりよいチャンスを与えるということは、レレヴァントな競争において競争的な価値を有する財にかんしてレベル・ダウンするということを意味する。
機会均等について語る政治家たちは、その刺草を手づかみにするのに気が進まなさそうにみえる。
さらに、顕示的に競争的な価値を有する財がある一方で、その価値のアスペクトがもっぱら潜在的でしかないような財もある。
ある財の差異的な分配が他の財を追求する競争で上首尾を人々が得るチャンスに影響を及ぼすならば、およそいかなるものであろうとその財は競争的に位置的なアスペクトを有していると考えるのが適当だ。
さらにまた、非競争的な種類の潜在的な位置的な価値を有している財が存在する。すなわち、そうした財の分配においてある人が占める位置を、他の財にかんするある人の絶対的な位置に結びつけるメカニズムが作動する場合である。
以上すべてのケースにおいて、ある財にかんしてレベル・ダウンするということは、それらの財の価値にかんする、あるいは他の財にかんするある人々の絶対的な位置を改善するということを意味するのである。
しかしながら、優先主義的な平等支持論、たとえそれが位置財にかんするものであっても、そうした優先主義的な平等論にたいして三つの異議が対置される。
第一に、多くの位置財は非位置的なアスペクトをも有している。
これらのアスペクトは実際のところ位置的なアスペクトから分離可能であるわけではないが、しかし、それらの分配もまた重要な問題であり、かくして平等擁護論は弱められる。
第二に、もしも、われわれがほんとうのところ気にかけているのがあらゆる事を考慮に入れたうえでの善き生であるとするならば、ある特定の財の不平等な分配は、一見したところ公正という規準を侵害するし、それをほんの少ししかもたない人々にためにその財をより多く産出するわけでもないけれども、にもかかわらず、あらゆることを考慮したうえでは、優先主義的な根拠にもとづいて正当化されうるかもしれない。
第三に、不平等が一定の範囲内にあり、そうインプットが一定のレベルにある場合には、政治的もしくは法的なインプットといった競争的な財の不平等でさえも、意思決定の質を改善することによって、認識的な前進をもたらしうるといえるかもしれない。
政治的な政策によって分配されるような種類の具体的な財が問題である場合に、われわれは、それらの財の分配原理を推論するためには、それらの財が、そして位置財の場合にはそれらの分配の特徴がどのように諸個人の善き生に貢献するのかを知らねばならない。
われわれは、さまざまに異なる財が相互に関係し合うしばしば複合的な因果メカニズムを認識している必要がある。とくに、ある財にかんする不平等を他の財にかんする絶対的なものと関係づけるメカニズムについて知る必要がある。
われわれがそれらのメカニズムを知らねばならない理由は、ひとつには、ひょっとしたら、われわれは、レベル・ダウンする代わりに、それらのメカニズムに割り込むことによって、財が位置的である度合いを引き下げたり、あるいは完全に取り除いたりすることができるかもしれないからである。
しかし、これはきわめて込み入った仕事である。この論文の議論を実際の政策の方面へと発展させようとするいかなる試みも、広報宣伝その他のために、簡略な経験則を必要とすることだろう。
適切に洗練された有利さ測定基準にかんしてレベリング・ダウンすることを支持するなどというのは実のところ倒錯的であるかもしれない。
もっとも境遇の悪い人々に便益をもたらすことの代償が不公正な不平等であるとするならば、その場合にはその代償は実のところ支払うに値するかもしれない。
しかし、そうすることは多くの重要なことを口に出さないままにしておくことになる。
そうした不平等の包括的な正当化をおこなおうとすれば、優先主義ならびに根拠にもとづいて正当化される不平等ともっと低いレベルでの平等との間でどちらかを選択しなければならないということを実際問題とするような動機づけの正当化が、そこには含まれることになろう。
そうした動機づけのなかには確かに正当化されるものもあれば、されないものもある。
われわれの道徳的な不同意の程度は、問題となる財の構造によって左右される。
動機づけは合法・正統な偏愛の範囲内に入るかどうか、制度的文脈と制度とルールの全般的な正当化との両方を行為者が知っているかどうか、によって左右される。
位置的なアスペクトを帯びた財の観点からの不平等要求は、その財にかんして他人よりもよい境遇にあるということが、その他人の絶対的な位置に不利な影響を及ぼすがゆえに、とりわけ問題を孕んでいる、ということをわれわれは示唆する。