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● 「発達の必要に応じた教育」のアポリア 2006-08-19
思い立って「発達の必要に応じて」をめぐる議論を整理してみた。

今さらながら、堀尾輝久「『教育と平等をめぐる諸問題』1963年初出(『現代教育の思想と構造』岩波書店, 1971 所収)から始める。

「公正の原則」とは?
「人為的・社会的不平等と自然的不平等の比が一定 = 配分的正義」(248) であること、すなわち、「能力や素質に応じる教育や職業や、社会的尊敬等の諸価値の公正な配分を意味する」(246)。この引用に出てくる「公正な」は素直に読めば剰語なのだが。

「機会均等原則」とは?
「あらゆるチャンスが、万人に均しく開かれているということであり、その意味では、これは形式的原則であり、それ以上でも以下でもない」(246)。

二つの原則の関係は?
機会均等原則は公正原則の「コロラリー」である。すなわち、「機会均等原則は、公正原則の実現を保障するものとして、それと不可分の関係にある」(246)。

さて、機会均等原則が「形式的」であるのは、その機能が文脈に応じて変化するからである。
「・・・機会均等原則は、その文脈的位置づけの変化によって機能転換し・・・資本主義的競争原理、ないしは、既存の体制維持のための社会的選抜〔選別と差別〕の原理としての「機会均等」とは異質の役割をもつようになる」(247)。

では、公正原則のほうはどうか。
「公正の原則が、今日、保守的・現状維持的思想と結びつき、ヒエラルヒッシュな社会秩序と、資本主義的分業体制を擁護する理論的武器になっている・・・。アリストテレスの配分的正義が、奴隷制の容認の役割を果たし、今日の公正の主張が・・・資本主義の実質的不平等の合理化の理論として、平等に対立する原理に変化している・・・。」(243-244)
このように文脈負荷的に描かれているところから、その限りでは公正原則もまた形式的な特質を帯びているととりあえずは読める。
ところがそのすぐ後に、「われわれは、公正原則のこのような理解を否定する。公正原則は、人間(の成長)についての正しい理解と結びつかねばならない」(244) と書かれている。さらに、「公正の原則は、社会的・経済的(実質的)不平等の否定の思想と結びついてはじめて、人間のゆたかな諸能力と多様な個性の発展のための原則たりうるということができよう」(244) とも。
この部分を、公正原則の形式性を否定していると読むなら、話がこんがらがってくる。むしろ、特定の文脈(思想)を選択するという決意の表明と読むべきか。

二つの原則だけでは完結しない。かくして三題噺ができあがる。
「われわれは、公正の理念を中心として・・・機会均等原則と社会経済的平等の要求を一括し、ランジュバンにならって「教育における正義の原則」と呼ぼう。」(257)

ここでいわれている「社会経済的平等の要求」とは端的に「「階級の止揚」(平等要求の今日的形態)」(254) のことである。今となっては後知恵なのかもしれないが、これでは公正原理に負荷をかけすぎだと思う。とういうのは、社会主義者でなければ公正ではありえないのかという難癖をつけようというわけではもちろんなく、原則に依拠した原則的な批判はその形式性に強さの源があると考えるからである。
貧乏人に門戸が閉ざされていれば、それは機会均等の原則を侵していると言えばよい。
「資本主義の実質的不平等の合理化の理論」にたいしては、それは公正原則を侵していると言うだけでは不十分なのだろうか。
「能力や素質に応じる」分配になっていないと言えば済んだはずであり、実際、堀尾も、「社会的不平等と、自然的不平等が互に強めあっていること・・・の認識にもとづいて・・・そこから、いっぽうにおいて、公正原則(人為的・社会的不平等と自然的不平等の比が一定 = 配分的正義)を暫定的原則として要求する」(248) と述べている。

なぜ「暫定的」なのか?
そうあるべき姿で構想された「今日の平等主義」がとるべき筋立てのなかに置かれた公正原則に、なぜ「暫定的」と留保を付けなければならないのか?
この点にかかわって、次のことを付け加えておくべきだろう。
わたしの読みでは、公正原理の正邪は必ずしも文脈依存のみの問題ではないということも暗に示唆されている。
「・・・教育における公正原則は、子どもの人権と学習権思想を前提とする個性化の原理であり、その実際的保障として教育機会への配慮を要請するものということができる。」(253)
これはすでに、「能力に応じた」という分配の正義についての常識的な理解を超える何かを孕んでいる。というか、もともとそれは「○○に応じた分配」を規範的に指示する形式的な原則であったはずである。○○には公共的な資源を分配するさいに決定的に大切な何かが入る。問題は○○に何を入れるかということになるが、そのことはこの原理それ自体にかかわる(相対的に)独立した問題圏を成す。
そして、これこそが後の「発達の必要に応じた」説へと連なる発想である。

ともかくこの論文の時点では堀尾は「能力に応じた」説を採っている。そしてそこにとどまったことが、後年黒崎勲『現代日本の教育と能力主義』(岩波書店, 1995)によって「リアリズムがあった」(81)肯定的に評価されるいくつかのセンテンスを若き堀尾に書かせた。もっとも、堀尾がそこから進んで「配分的正義の原則の独創的な発展」を主張するようになると「リアルな認識態度は失われてしまっている」(82)と一転否定的に評価されることになるのだが・・・

閑話休題。

日本国憲法26条の文言「能力に応じて」を「発達の必要に応じて」と解釈することについては、1974年の教育制度検討委員会報告書『日本の教育改革を求めて』(勁草書房)に盛られ公知のものとなり、1978年に出た兼子仁『教育法〔新版〕』(有斐閣)に「これが、すでに教育法学界における通説的解釈と言えよう」(231-232)と明記されオーソライズされ今日に至っている。

一般的には「発達の必要に応じて」とは「ハンディキャップに比例して」(黒崎: 82)と理解されている。教育制度検討委員会報告書にも次のようにある。

「もし私たちがこの〔「能力に応ずる教育」という〕原則を私たちの原則として生かそうとするなら、それは、さまざまの面で発達のおくれているもの、また障害をせおっているものほど、いわゆる能力のたかいものよりも、いっそうゆきとどいた、いっそう長期の保護と教育を保障すべきだ、いっそうの人間的な援助と努力を傾注すべきだという原則としてとらえなおすべきである。「能力に応ずる教育」は、発達の必要に応ずる教育としてとらえなおされるべきである。」(85)

梅原利夫はそれを右図のように示している(初期値に差がある学力を発達の必要に応じた公教育によって引き上げる様子がモデル化されている。http://www.ishii-ikuko.net/staff/kihonhou/020820.htm より。もともとは「しんぶん赤旗」2002年8月20日付に掲載されたもの)。

しかしながら、こうした解釈の拠り所となっている学習権思想は必ずしもそのような「逆差別」を導かない。そのことは堀尾の論文「『能力主義』教育の問題性」(1976年初出, 『現代日本の教育思想』青木書店, 1979年所収)に明らかである。

「・・・「能力に応じての」教育を考えれば、それは、能力の高いものにはその能力の発達にふさわしい充実した教育を保障し、能力の開花に遅れがみえ、学習に困難をともなうものにたいしては、その能力を開花させるために必要で十分な手だてをつくす教育を保障することを求める文言だと読めてくる。」(173)

どちらが「発達の必要に応じた」教育の本義なのだろう?

「わたしたちは、才能に恵まれた者がそれを発揮できない社会を望まない。同時に、恵まれていない者を切り捨てる社会も望まない。」(堀尾「教育における平等と個性化」1978年初出, 前掲書所収, 284-285)

堀尾の言いたいことはよくわかる。だが、それに続けて次のように問題が整理されるとき、やはり黒崎が指摘しているように(82)、教育制度論の前提となるべき二つの条件(資源の穏やかな稀少性と諸個人間の利害の対立)が視野から抜け落ちていると言わざるをえない。

「問題は、その能力と個性を、どのように実現し、社会的に活用するか、そのことを社会とその当人が、どのように意識するかという点である。私益優先の現代社会にあって、各人は、その能力を自分個人の利益のために発揮するのか、それとも、社会的意義を優先させてみんなの幸せのなかに、わが身を置こうと考えるのか、その生活にたいする基本的な態度の差は大きい。/こうして社会意識、とりわけその価値意識の変革が求められている。」(285)

無惨なくらいにナイーブ。
とはいえ、「発達の必要に応じた」説の登場によって、かつて公正原理にかけられていた暫定性が解除されると同時に生じてしまっているアポリア(見えやすいので、すでに誰かが指摘している可能性大ですがわたしは知りません。ご存知でしたらご一報ください)、私見では、このアポリアこそが理論的前進の徴候である。
黒崎のように、学校選択によって「発達の必要」にまで応じてしまうというのも一つの手かもしれないけれど、それですべてが尽くされるわけでもなかろう。

ここまで来てやっとで昨日まで紹介してきたブリッグハウス & スイフトの論文と話がつながる。

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