このサイトのどこかにさらしてある分配の正義論についての「お勉強レビュー」はマーサ・ヌスバウムで中断している。なぜ彼女の見解を読み、なぜ彼女のところで止まったのか。
教育の存立は、教えるわたし(あなた)と教えられるあなた(わたし)との間の落差を必要条件とする。
教育の病理が教育の生理だと言われるのは、この落差があるからだ。
この落差が諸悪の根源であるのならば、いっそのこと無くしてしまえばよい。
だが、そうすれば教育も一緒に無くなる。
それで何か不都合があるのか。
わからない。あるかもしれないし、ないかもしれない。
教育の the good と the bad の同根性。
If you say, nevertheless, it would be impossible to do without education...
これがその当時の気分。
アマルティア・センに業を煮やした(?)ヌスバウムが熱心に薦めるアリストテレス派社会民主主義あるいは徳倫理学あるいは卓越主義は、ひょっとしたらこのもやもやした気分を晴らしてくれるかもしれないと思った。
思惑は外れた。
その後、塩野谷祐一の『経済と倫理』が出たが、そこで主張されている卓越主義の完全無欠性がかえってこちらの警戒感を刺激した。
塩野谷の卓越主義を移入した宮寺晃夫は、近著『教育の分配論』の序章でこの本の主題を次のように述べている。
善き生の追求に最大限個人の多様な自由意思が尊重されるとともに、その追求を可能にする資源を、各個人に公正に分配して人格内に能力として"ストック"させていく。そのことを通して公正な社会の実現を展望していく。これが教育の分配論の主題であるが、問題の焦点となるのは、能力開発において「公正」とは何かである。(12)
要するに、卓越性を形成するための分配の原理を究明すると書かれており、そこに両者間に想定される緊張(卓越主義的リベラリズムという奇妙な婚姻関係に起因する)が明示されていないところがちょっと気にはなったけれど、ともかく期待を抱かせる設定であった。
が、こちらの読みが浅かったせいか膨満感が募り、今日に至る。
ここいらでガス抜きしておくことにする。
「教育なしではやっていけないだろう」という判断には、それでは社会が維持できないだろうという要素と、それでは人として幸福にはなれないだろうという要素が含まれている。前者だけなら話は込み入っているにしても分析にかけることは可能である。問題は後者だ。できれば触れたくない話題である。
切り口がもしあるとすれば卓越主義の近辺かな、という当たりの付け方。
宮寺『リベラリズムの教育哲学』(118-119)によれば卓越主義の特徴は次のように記述される。
ラズがこのように「価値あるもの」(ヴァリュアブル)、「選択に価するもの」(ウァズィ・オブ(ママ)・チョイス)を強調するのは、自律性や自由な選択の促進がかならずしもその個人の幸福につながるとは限らないとみるからである。自律性それ自体は、価値的な観点に立てばニュートラルなものにすぎない。たんに自己規定と選択の機会を保障することではなく、価値ある生き方に向かっての自己規定と、道徳的に有意義な選択肢のなかからの選択とが、「自律性と価値多元主義とを結び合わせた個人の幸福の観念」、すなわち卓越主義的リベラリズムの中心的な観念なのである。この意味で、ラズは「卓越主義的リベラリズムはしっかりした道徳的基盤の上に立っている」といっている(Raz [1994: 105])。
それでは、「価値あるもの」は何かの決定はどのようになされていくのか。とりわけて、この決定にかかわる道徳的基盤は誰によって、どのように用意されていくのであろうか。この問題への回答として、ラズは政府の側に保護・助成の役割をみとめていくものの、政府の役割を多様で意義のある選択肢を用意していくことにこそ求めている。「政府、そして一般に他者は、人びとの向上を助けることができる。しかしその支援は、自律的な生をつくりだすためのさまざまな条件を調えていくことを通してのみなされうる」とラズはいう(Raz [1994: 105])。このようにラズのリベラリズム哲学は、「中立性重視」のリベラリズム哲学とはちがって、「自由に対するリベラルなの尊重の基礎を諸個人の善き生にたいする政治的関心に置く(訳文変えました)」ことに特徴がみられる(Raz [1994: 106])。
既視感に襲われる。「条件整備的教育行政」。
ここにおいて、条件整備的教育行政観それ自体は教育内容について濃厚な価値指向を有していたということに注意。ただしその主唱者は「逆説的に政治的」と自らを評したわけだが。
実は、わが国の教育改革論議において、標準的なリベラリズムに依拠した主張は、ごく最近までひとつもなかった(ただし戦後に限定・影響力あるものに限定)。宮台らが最初か。
ラズから引用しておこう。
政府は、そして一般に他者は、人々の幸(さきわ)いを手助けすることができる。ただし、自律的な生のための諸条件を創出することによってのみ。主として、適切な範囲の多様で価値ある選択肢がすべての人々にとって利用できるよう保証することによって。[Ethics in the Public Domain: 105]
政府は人々に幸いなる生を持たせることはできない。各人の面倒を見るのはその人自身の責任である。しかし、政府は、そうした生を可能にする環境の創出を保護し促進することによって、その種の生を送ることができるような諸条件のなかに人々を置く手助けをすることができる。[105]
結論として、個人の自由にたいするわれわれの関心のルーツは、個人の繁栄にとってパーソナルな自律性が有している重要性を正しく評価することのうちに存している。そこから二つのことが導かれる。すなわち、適切な範囲の価値ある選択肢のなかから次々と選択を続けていくことによって、自分自身の生を導くという人々の自由を積極的に奨励すること。そして、・・・消極的な寛容・・・[109]
「価値あるもの」もしくは the good とそうでないもの the bad はいかにして決まるのか。同じことだが、「適切な範囲」はいかにして画定されるのか。
自律性の諸条件は環境が可能性において豊かであることを要請する。
なかでも適切な公共文化 public culture が求められる。というのも、社会において利用可能な諸々の機会の本性特質 the nature and quality をかなりの程度まで決定するのは公共文化だからである。
だが、それにふさわしい公共文化を要請するという点では、自律性の諸条件は共通善 the common good に依存している。すなわち、ある人にそれが利用可能である場合には、すべての人々にとってもそれが利用可能であるような善/財、その便益が競争も衝突もなくすべての人々がそれを持ちうるような善/財に依存している。
もちろん、われわれの社会が資源をめぐる競争に絡んでいる度合いを過小評価すべきではない。
また、パーソナルな自律性という道徳性が引き起こす分配上の諸問題の厳しさについても過小評価してはならない。あわせて、多様な価値ある選択肢の適切な範囲がすべての人々に手の届く範囲内にあるべしという要請についても同様である。
しかしながら、社会において利用可能な選択肢を維持し規定するそれにふさわしい共通文化 common culture の決定的に重要な役割をはっきりと視野に収めておくことは重要である。[107]
「文化」が曲者である。バナキュラーなものなのか? もっと高級?ないわゆるコモン・センス的なものなのか? はたまた・・・ いずれにしても、文化には口がないしキーボードも打てない。「これが善である」と articulate する代弁者が必要だ。共通善の定義により、代弁者はその社会を構成している全員だ。でもそんなことは現実にはありえない。現にラズも the bad の存在、ということは共通善を必ずしも共有しない構成員を想定している。ではいったいどの発声器を通してそれはこの世に送り出されるのか?
We the People !!
それともうひとつ。
上の引用の最初のパラグラフにある「パーソナルな自律性という道徳性が引き起こす分配上の諸問題」は「厳しい」のだという指摘。これはこれとして相対的に独自な問題群を構成する。「自律性を形成する分配」などとそう簡単には言えそうもない。もし言えるとしても、おそらく些細ではない但し書きを書き入れることになるのだろう。
危ういけれど、もう少し粘ってみる。(この項つづく)