ヒュームの公理と呼ばれているらしい。初めて目にしたのは
Bernard Williamsの論文。
Were they pushed or did they jump?という実に印象的なタイトルの著書で知られる
Diego Gambettaが編んだ
Trustの巻頭に収められている(後に
Williams, Making sense of Humanity, 1995に収録)。
さて、この公理の内容は、
何らかの集合的に望ましい結果を促進するためにある人が行為する場合に、彼がそのように行為する理由は、彼が有している(たとえばまさしくそれをおこなうという)何らかの性向もしくは欲求によって説明されなければならない、ということである。彼がそのように行為するということは、そうすることがあの結果を促進するという事実のみによっては、あるいはまた、そうなることを彼が知っているということのみによっては説明されえない。したがってこのことから、そうした結果を人々に追求して欲しければ、その結果をもたらすために適切な動機づけが実際に存在するように取りはからう必要がある、ということが導かれる。(Williams 1995: 117)
ここで述べられていることは
Thomas Nagelの次の指摘とかかわる。
政治理論は一般に理想的かつ説得的という機能を有している。それは、集合的生の理想を提示するとともに、人々一人一人にたいして、その理想のもとで生きたいと欲すべきだということを示そうとする。こうした野心はひょっとしたら普遍的なものなのかもしれないし、あるいはもっとローカルなものなのかもしれない。しかし、いずれにせよ、それらを一緒に実現するにはどうすればよいのか、それらは必然的に相互に干渉しあうのかどうか、といった深刻な問いが存在する。理想は、それが目論見がどんなに魅力的であろうとも、リーズナブルな諸個人がそれを生きるべく動機づけられることができないならば、ユートピア主義的である。だが、個人的な動機に完全に釘付けにされた政治システムはおよそいかなる理想をも体現することに失敗するであろう。(Equality and partiality, 1991: 21)
理念を提示すること。
要求に応えること。
意識調査の対象選定について難癖をつけてきたけれども、仮に調査対象の選択が妥当であったとしても、意識調査の結果が政策提言と一致しているという事実は、その政策の適切性を必ずしも保証しない。「個人的な動機に完全に釘付けにされた政治システムはおよそいかなる理想をも体現することに失敗する」からである。
あるいは、意識調査の結果が政策提言と一致し、かつ、その政策が適切であったとしても、その実現可能性を必ずしも保証しない。「彼がそのように行為するということは、そうすることがあの結果を促進するという事実のみによっては、あるいはまた、そうなることを彼が知っているということのみによっては説明されえない」からである。
というわけで、吉原直毅さんによる後藤玲子さん批判には大いに共感するものを感じます。
後藤さんの議論は、人々は制度の達成すべき社会的目的・規範的理念に関して合意すれば、そうした規範的理念に即した行動原理で日常の経済活動にも従事するだろうと想定してしまっている――だから、私が懸念するようなインセンティブ問題は、そもそも解決済みというロジックになろう――。むしろ、自己利益追求的に行動する人々を想定して誘因両立的な制度を考えるという論点そのものを、克服すべき「市場原理主義」の変種と見なしているようですらある。しかし、これは規範的論議と事実解明的分析に基づく想定とを混同させている議論であって、非常に拙いだろう。「人はどのように行動すべきか」という問いと、「人はどのように行動するだろうか」という問いの違いを良く踏まえておかねばならない。制度を実行した結果、どのような資源配分が実現されるかという問題は、「人はどのように行動するだろうか」という問いに関わるのであって、「人はどのように行動すべきか」という問いに関する一定の見解に基づいて、結論を出す事はできない。なぜならば、我々は人々が各々採用しているであろう行動原理を我々の都合で勝手に変更する強制力も権限も持たないのであるから(
第15回現代規範理論研究会:後藤玲子「正義と公共的相互性」について)。
あるいはここで、動機を変更するという役割を教育に期待するという議論がありうるかもしれません。あるいは分配されるパイを大きくするための労働力の質にかかわってとか。というか、その手の議論はそこらじゅうにありすぎ。これも吉原サイト情報ですが、あるシンポジウムで橘木俊詔さんも大竹文雄さんもそれ系のことを述べられたよう。それにたいする吉原さんの所見も見事です。
福祉国家路線を目指す限り、教育政策に力を入れるべきことはそのとおりであるが、教育政策自体、資源の配分問題が関わるのであって、それは国民国家総体としての資源配分メカニズムの中で適切に機能するように制度設計されなければならないだろう。政策意思決定により直接的に関与する立場にある社会科学者・経済学者たちがより、こういう理論的パースペクティブを持って議論するようになる事を期待したい。(
シンポジウム「統計で見る日本の経済格差」を聴講する)
わたしも教育を社会の中に埋め戻したいと思ってはいるのですが。
教育の場合は、動機が必ずしも利己的ではないところが攪乱要因。「わが子のため」は時として美しい。けれども機能的には利己的動機と等価だったりする。