北海道日本ハムファイターズがパリーグ一位に。ここ札幌ではビールかけの模様が深夜テレビで中継された。めでたい、めでたい、祝いだ、祭りだ一色である。
かつて「めでたがってはいけない」時期があったのを思い出す。あの人が死んだおかげで陽水の「お元気ですか」CMが放映中止になった。今の人がこの時期に死んだらビールかけも自粛なんだろな。あなたが平等主義者ならば「おかしい」と思うにちがいない。
でも、あなたが掛け値なしの平等主義者なら、ひょっとしたら、ビールかけには断固反対すべきかもしれない。今月末には初雪が舞うここ札幌にも路上生活者はいるのだ。
一般的にはリベラルな平等主義、特殊的にはロールズの格差原理にたいしてしばしば指摘される難問がある。底なし穴問題
the bottomless pit problemと呼ばれているこの問題には、細かくいえば二つのバージョンがある。
格差原理が健康を(所得や安全や教育と並んで)一位善として取り扱うとするならば、それはどんな意味を含んでいることになるであろうか。まず最初にもっとも病気の重い市民にたいして、医療的に必要なだけのヘルス・ケアを(あるいはそれと等価の保険金を)分配することを国家に求めることになるだろう。これ以上経費をかけても、社会のなかでもっとも病気の重いグループの健康を改善する見込みはないという地点に至るまでその要請は止まない。次いで二番目に病気の重い人に、以下同様。・・・生命を救ったり、寿命を延ばしたり、その他のやり方で生を改善するリーズナブルなチャンスを提供する高額の医療措置が数多く存在しているとき、格差原理は医療ニーズの「底なし穴」問題をつくり出してしまう。膨大な量の社会的資源がその穴の中へと吸い込まれざるをえず、他の社会的財にはほとんど何も残らなくなってしまう。それらの財には、健康と同じくらい重要な所得や安全や教育といった一位善が含まれる。(Amy Gutmann and Dennis THompson, Democracy and Disagreement, 1996, p.211)
これが第一のバージョン。
第二のバージョンは、上の例を使い回すと、二番目に病気の重い人に行く前に社会的資源が尽きてしまう場合である。すなわち、
もっとも不利な立場に置かれている人々のために最大限のことをおこなおうとすると、それらの人々に手持ちのすべての資源をつぎ込むことを余儀なくさせられ、その結果相対的に有利な立場にある人々のためには何も残らないという事態に陥る可能性。(Harry Brighouse, “Educational equality and justice”, in Randall Curren ed., A Companion to the Philosophy of Education, p.477)
教育にかかわる資源の分配問題にたいするわが国における唯一の解答ともいえる「発達の必要に応じて」が、障碍児教育研究の分野からもたらされたということについては広く知られている。しかし、口当たりのよいこの文句の裏に鋭い棘が隠されているということについて語られることはまずない。
ハリー・ブリックハウスはこの問題に繰り返し言及し、格闘しつつも解答が得られないとそのたびに書いている。が、議論の出発点(しばしば最初の一押しが一番力を必要とする)とするには十分であろう。著書
School Choice and Social Justice (2000)のセクション
“Understanding educational equality”を紹介してみる。
教育上の平等について三種の理解がある。
第一は、各人の教育に等しい量の資源を、というものである。障碍をもつ子どもを思い起こせばすぐわかるようにこれは拙い。
そこで第二に、等しい結果をもって平等とみなす考え方が出てくる。
これにたいしては、結果に影響を及ぼす本人の選択や選好を考慮していないという異議がありうる。それにたいしては、子どもだから選択に責任は負えない、選好はしばしば適応的である、との再反論が可能であろう。とはいえ、だからといって、平等の尺度を結果に求めることの妥当性が立証されるわけではない。障碍児には健常児よりも多くの資源を割くべきというというのは確かだが、それでもなお両者の間に平等な結果を期待することが現実的ではないケースがありうるだろう。
第三の理解はロールズの公正な機会均等の応用版。すなわち、
自然的能力が同レベルであり、かつ学習意欲も同レベルである子どもたちは、社会システムにおける初期位置の如何にかかわらず、教育的達成への同じ見通しを有しているべきだ。
これでは異なる才能レベルへの考慮が抜け落ちるので不十分。
そこでそれを満足のいくように修正しようとすれば、すなわち才能や努力も補償しようとすれば、結果の平等論と同じことになってしまう。
社会は社会的不利には責任を負うけれども、遺伝子的不利には責任を負わないのであるから、社会的背景の教育的影響についてはこれを打ち消そうと試みるべきだが、遺伝子の教育的影響については除く、と主張すればスッキリしそう。だが、当然のことながら障碍者の存在を社会的に承認しているのはほかならぬその社会であるのだから、社会に責任がないとみなすことはできない。
遺伝子的不利に社会が責任を負わないという考えるもうひとつのやり方がある。自然的能力は人格と分かちがたいという考え方。なるほど、そう考えると、遺伝子的不利よりも社会的不利を矯正することのほうに気を遣うという主張に合点がいくが、だからといってその主張が正当化されるというわけではない。
たとえば遺伝子治療。たとえば遺伝子異常による障碍と分娩室でのミスに起因する障碍と。
アレン・ブキャナンによるsubject-centred justiceとjustice as reciprocityとの区別が示唆的。
JAR にれよば、正義の主体は社会的協働に生産的に携わることができる。それにたいして、SCJ によれば、主体のニーズやインタレストは、彼女/彼らが正義のスキームへの参加者であるとみなされることを正当化する特徴である。
諸々の不利を産み出すさいに社会が果たしている因果的役割こそが、そうした不利に注意を払うべしという社会の責務を決定するのだとみなすことができるとすれば、それは、われわれが、正義とは a matter of reciprocity なのだという見解を保持している場合であろう。
それにたいして、SCJ は、等価のものを返す (reciprocate) ことができる状態になく、将来もないであろう人々にたいしても、正義の責務をわれわれは負いうるのだ、という観念を伴うわれわれの根本的直観をよりうまく説明する。SCJ に立脚するなら、引き起こすのに社会が一役買ったような不利に社会の責務は限定されると仮定するのは正統ではない。
かくして、学習関連の disabilities を教育上の平等の問題にとってイレレヴァントなものとして却下するのは不可。
ここまで126ページ下から131ページ上までの端折り訳。ここから136ページ上まではかなりベタ訳。
同じレベルの自然的才能をもつ子どもたちについては、彼女/彼らの教育におおよそ等しい量の資源を差し向けるべきだ、というのは正しいように思われる。
このことは次のことを示唆している。すなわち、社会的に不利な立場にある子どもたちが有利な立場にある子どもたちよりも才能に恵まれていないという系統だった理由がないかぎり、社会的に不利な立場にある子どもたちにたいして国家がより多くの教育的資源を支出し、そうすることによって、相対的に裕福な背景を出自にもつ子どもたちのそれと同様の物質的および教育的な成功への見通しに彼女/彼らが向き合えるようにしてやることは正統である。
さらにまた、自然的才能が異なるレベルにある子どもたちの教育に等しい量の資源が差し向けられる場合には、彼女/彼らは教育上等しくは扱われていないと思われる。
しかしながら、自然的な不利においては、教育的資源を不均等に分配するのが妥当であるとはいえ、物質的および教育的な成功への等しい見通しを目標に設定するのは妥当ではないように思われる。
平等な見通しを目標に据えたならば、その帰結として、われわれは、もっとも才能に満ちあふれた子どもがほんのわずかのインプットで到達しうる達成レベルにはけっして届かないかもしれないようなもっとも才能に恵まれていない子どもたちにたいして、すべての教育的資源を振り向けることによって、きわめて才能に恵まれた子どもたちの教育を完璧に無視することになりかねないであろう。
さらに、達成が才能の尺度として用いられるのが不可避である以上、もしそのような政策がとられたならば、相対的に才能に恵まれた子どもたちと恵まれていない子どもたちのいずれにたいしてもはなはだしい反インセンティヴ効果を及ぼすであろう。
低い達成に見返りがあるならば、努力しようなどというインセンティヴは誰にも湧かないからである。
さらにもっと反直観的なことがある。もっとも才能に恵まれていない子どもたちに才能が十分に欠けているならば、平均的な才能の子どもたちや平均以下の子どもたちも教育的に無視されることになるだろう。
だが、教育的資源の分配を統べるほかのどんなルールがありうるというのか。
このように問いを設定した著者は、「わたしは問題の解を持ち合わせていない。つまり、これから検討するいずれの解にも欠陥があるとわたしには思われ、しかもそれに代わる解を持ち合わせていないのである」と断りを入れる。
「問題を解こうとする試みに伴う諸問題をさらに深く探究しよう」と行論は進む。
最初の解の候補として、いわゆる閾原理
threshold pricipleが検討に付される。
エィミィ・ガットマン
Amy Gutmannが影響力の強い一つの提案をおこなっている。それによって彼女はわれわれが確認済みの底なし穴問題をうまく切り抜けようと試みている。
教育上の平等にかんするいかなる説明であろうと、以下のような直観についてはこれらを尊重するにちがいない。すなわち、子どもは自らが諸々の教育機会をどの程度取り込んでいるのかということにたいして最終的には責任を負うことができない以上、諸々の結果に焦点を当てざるをえない。さらに、障碍者には健常者よりも多くの資源を振り向けなければならない。また、底なし穴問題にかんして語るために何かしらもっともなことをもっていなければならない。
これら三つの規準すべてに合致するような平等な教育機会解釈をガットマンは提案し、それを
民主的閾原理democratic threshold principleと呼んでいる。
民主的閾原理のもとでは、「教育的財の分配における不平等が正当化されうるのは、それらの不平等が民主的プロセスに有効に参加する能力(これが、就中、他の社会的財と比べて教育の優先性を決定する)をいかなる子どもからも奪わない場合であり、かつその場合のみである。」
(Democratic Education, 1987: p.136)
この基準はある一定の閾値を差し出すので、最悪の底なし穴問題にたいしては免疫である。
閾を越える部分における教育上の達成の不平等は、子どもたちが皆それぞれ閾に到達しているかぎり、完全に許容される。
そうした不平等は能力差の反映であるかもしれないし、あるいはひょっとしたら、ガットマンはこうしたことを別の理由から却けるであろうと思うけれども、親の富の差の反映ですらあるかもしれない。だから、すべての子どもが閾に到達することを保証するために十分なだけよりも多くの資源が教育に差し向けられるかぎり、底なし穴は存在しない。
ガットマンの提案にはいくつかの小さな問題が付きまとっている。ランドール・カレン
Randall Currenは、「民主的プロセスに有効に参加する能力」によって意味されているところが明瞭ではないと指摘している
(“Justice and the threshold principle”)。
ほとんどの活動分野において、有効性は成功という観点から明らかにされる。
だが、民主的参加の分野においては、これは定義により不可能である。
政治的論争におけるはぐれ者は、たとえ彼女/彼らの目標を達成することに成功する見通しがなくても、大いに有効である可能性があるだろう。
彼女/彼らの成功の欠如は、彼女/彼らの見解の無効さの、ではなく周縁性の関数である。
しかしながら、思うに、ガットマンは比較的簡単にこの問題を克服することができる。
ロナルド・ドゥウォーキンから借用すれば、有効性を次のような観点から定義することもできるだろう。すなわち、
ある論点に関して市民たちの見解がどのように分布しているかをわれわれは知らないとしよう。
われわれは、その論点に関するパートウィーの見解がいかなるものであるかを見出すとしよう。
彼が自らの見解を実施させるために努力を傾けようと意図しているということを見出したことにより、われわれが、彼の見解が採用される確率にたいしてそれ以前よりも高い確率を付与することになるとするなら、その場合には、パートウィーは民主的プロセスへの有効な参加者である。
こう定義することにより、有効性は些細な問題ではないということが言えると同時に、それが成功に依存するものではないということも確かに言えるようになる。
しかしながら、ガットマン基準にはほかにも問題がある。
小さくなったとはいえ底なし穴問題が再び出現する。というのも、ある子どもたちを閾にまで引き上げるために費やされる大きな資源は、他の子どもたちのために費やされるほうがよりよいと考えられる、あるいはそうした子どもたち自身にとって直観的にもっと重要な面を増進することに費やされるほうがよりよいと考えられる可能性があるからである。
さらにまた、カレンが指摘しているように、ガットマンの基準は一定した基準線を確定しない。すなわち、
最高の教育を受けた
the best educated諸個人がより多くの教育を得るにつれて、最低の教育を受けた
the least well educated人々は、有効に参加するためにはより多くの教育を得る必要が出てくる。このことはもうひとつ別の底なし穴問題を生み出す恐れがある。
カレンは代案となる閾を提示する。それによって底なし穴問題を回避することに成功すると彼は考えている。
社会的包摂閾threshold of social inclusionと呼ばれているものがそれである。
彼が論じるところによれば、ある一定の重要なレベルの教育が欠けていると、市民は雇用されなかったりきわめて低い社会的地位に置かれるといった深刻なリスクにさらされることになり、これらの条件はいずれも犯罪行為の有意な予兆である。
犯罪行為の処罰は、さもなくば不可譲の諸権利の否定を含意するので、非雇用や低い社会的地位を回避するために必要とされるレベルにまで市民のすべてを育て上げることに失敗する国家は、自らの諸権利を取り消されてしまうというリスクに市民たちをさらしてしまうことになる。
これは明白に不正義である。
この規準はガットマンの民主的閾よりも要求するところが少なく、それによって特定される基準線が、最も多く教育を受ける人々に与えられる教育のレベルに応じて大きく引き上げられる公算は低く、したがってまた、それが直面する潜在的な底なし穴問題から加えられる圧力も比較的小さい。
もちろん、わたしは、ガットマンの閾もカレンの閾も満たされなければならないということについては、これを受け入れる。
そして実際、わたしはガットマンの提案を魅力ある平等主義的目標であると思う(注: 第4章でわたしは、強く共和主義的なガットマンの民主制コンセプションにかんして懐疑を表明する)。
しかし、いずれの閾の提案も、教育上の平等という問題にたいする哲学的な解を構成しない。
どちらの提案によっても、報酬と地位を与える職に就くとことにたいして、また、消費や享楽のための資源を得ることにたいして、人々が根本的に不平等な見通しに直面するということを、しかも、彼女/彼らに責任があると考えことがリーズナブルではないような諸要因のせいでそうした不平等に直面するということを許容する。
誕生時の偶発事故は、かなりの程度、人々の生の見通しを決定しつづけるであろう。そしてこのことは、責任とデザートにかんする根本的な直観を侵犯する。
かくしてガットマンおよびカレンの議論は満足のいく解を提供しないということが明らかにされ、問題点が以下のように整理される。
今や次のように付言しなければならない。すなわち、
いかなる完璧な正義理論であろうとも、おそらく、諸個人が責任を負っているとはリーズナブルには考えられえないような諸要因によって見通しが部分的に決定されることを許容することになるであろう、と。
しかるに、ガットマンとカレンの理論に付きまとう問題は、それらの理論が、この譲歩を、教育上の平等を達成するために為されうるかもしれないことにたいして教育上の平等以外の諸価値によって課される諸制約のもつ特性の結果として見るのではなく、教育上の平等の理論内部に差し出された状態にしてしまっている点にある。
家族の価値、宗教的自由の重要性、経済成長が皆にとって有する価値と関連する諸々の理由が存在し、それらの理由が、われわれが教育上の平等を達成するためにおこなうことにたいして自ら限界を設けるべきだと示唆している、ということが判明する可能性がある。
だが、これらの限界は、私見では、教育上の平等それ自体の価値に内的なものであるというよりは、むしろ、他の諸価値によって押しつけられたものである。
二つめの問題群と解の候補はアーネソンの議論からヒントを得て展開される。
教育上の平等を構想するにさいして自然的能力の差異が提出する問題にたいする解をわたしは持ち合わせていない。思うに、二つのことを言うことができる。
第一に、
まさしく障碍者の利益を考察することによって動機づけられた結果、どんな資源が彼女/彼らに差し向けられるべきかということにかんして、原理的に裏づけられた限界が存在するかもしれない。
もしも、以下のことが真であるならば、障碍者にとっての長期的な便益の見通しは、彼/彼女からの教育に現在時点で費やされる資源を制約することに支持を与える。
すなわち、リーズナブルな経済成長水準を維持するために、また、相対的に能力に恵まれない人々や障碍者に教育上の便益をもたらすであろう医療的、教育的、技術的革新に相対的へと才能に恵まれた人々の注意を向けさせるために、さまざまなインセンティヴ、とりわけ多大な教育が提供されなければならないということがもし真であるならば。
平等主義者のなかには、あるいは、さらにその先に進んで、教育の不平等が長期にわたり障碍者により優れた全般的な物質的善き生をもたらすと期待することができる場合には、それらの不平等は正当化されうる、と述べる者もいるであろう。
リチャード・アーネソンRicahrd Arnesonは最近、ロールズがいわゆる格差原理と比べて公正な機会の平等に付与している優先性に異議を唱えている(“Against Rawlsian equality of opportunuty”。このうち前者は、最も不利な境遇にある人々の最大の便益のために資源が分配されることを求めるものである。
ロールズは公正な機会の平等に辞書的な優先性を与えている。その意味するところは、就中、たとえ機会の平等が非効率をうみだし、その結果すべての人々が皆物質的観点からみてより悪い境遇にとどまったとしても、この優先性が守られるべきだということである。
もしも、障碍者の教育に大量の資源が振り向けられることを機会の平等が要請するとするならば、機会の平等が最も悪い境遇にある人々の物質的福利と衝突するというシナリオは、まさしく、われわれが理由をもって疑わしいと思うものそのものである。
この問題にたいするアーネソンの返答は、そうした衝突が存在する場合には、われわれの関心は、機会の平等ではなく、最も悪い境遇にある人々の全般的な状態に向けられるべきだ、というものである。
この返答をもっともうまく支える推論は、最も悪い境遇にある人々の視点から状況から視ることである。すなわち、彼/彼女らの視点からみれば、重要なのは、彼女/彼らがどの程度の境遇に置かれているのかということであって、彼女/彼らの機会が他の人々のそれとの比較においてどの程度よいかということではない。
われわれが論じている文脈のなかに置いてみれば、アーネソンの見解は、障碍者を利する最善のチャンス全般をわれわれに与えるのであれば教育機会の不平等はいかなるものであろうと許容するということを支持するであろう。
このとき、アーネソンの提案とわたしのそれとのちがいは、わたしのそれが教育機会の不平等を許すのは、それらの不平等が障碍者の教育機会を増進すると期待されうる場合に限られるのにたいして、アーネソンのそれは、教育機会の不平等が障碍者の全般的な純便益をもたらすと期待されうる場合にはいつでもそれらの不平等は許される、としているところにある。
アーネソンの強力な議論を細部にわたって論じる十分な余裕はここにはない。
彼の立場を是認するのは差し控えておく。なぜなら、彼の立場は機会の平等が正義の理論のなかで特権的な地位をもたないという反直観的な帰結をもたらすからである。
アーネソンがこの帰結を受け入れているらしいということも記しておくべきだろう。
しかしながら、わたしは、アーネソンの示唆を拒絶することも控える。なぜなら、われわれが関心を寄せいている文脈 ― 擁護できる教育上の平等の理想に対抗する学校選択提案の評価 ― においては、彼とわたしの提案のあいだの違いは顔を出さないからである。
もし一からスキームを設定する幸運なプランナーがいるとすれば、彼/彼女はわたしの見解とアーネソンのそれとのあいだのちがいに関心をもって取り組まねばならないであろうし、わたしがアーネソンに返答しないということはわたしの説明における重大な哲学的欠落である。けれども、当面の実践的目的のためには、われわれの説明は十分に類似した含意を有している。
言えること、言うべきことの二つめ。
教育上の平等を概念的に構成することに伴う諸困難に直面して言うべきことの二つめは、多くの障碍、とりわけ学習関連の障碍に取り組むことはできるし、それに取り組む多かれ少なかれ費用効果的なやり方も存在するということに注目することである。
「障碍をもつアメリカ人法ADA 1990」は、障碍をもつ人々を公共生活に適応させるための基準を示唆している。それは客観的であり、われわれの文脈で用いるために容易に修正することができるであろう。すなわち、「この基準は次のように呼びかける。仮に機能に障碍がないということが社会政策にとってたんに周辺的な重要性しかもたないほどに例外的な状態だとするならば、客観的な社会的実践はどのように転換されるだろうか、と想定して考えてみよ、と」(Silvers, Anita, “Reconciling equality to difference: caring (f)or justice for people with disabilities”)。
エリザベス・アンダーソンElizabeth Andersonが説明しているように、「ほとんど皆がデフdeafであるとしたならば、市民社会におけるコミュニケーションはどのようにアレンジされることになるだろうかと想像し、そうして、これに近似的に等しいデフ・アレンジメントを提供するよう試みることを、この法律はわれわれに求める」(Anderson, “What is the pint of equality”)。
われわれはこの基準を容易に修正して、多くの身体的障碍、具体的にはたとえば耳や目の機能障碍を取り扱うにさいして、以下のようにして、包摂的な学級設定に応用することができる。
障碍をもつ子どもたちには資源が与えられなければならない。それらの資源は、彼女/彼らの学級経験を、可能な限り、彼女/彼らが彼女/彼らと同じ障碍をもつ他の子どもたちと一緒に教育された場合に適切であるとみなされるような学級経験に近づけるものでなければならない。
したがって、たとえば、聴覚障害の生徒たちには手話者が提供される。学級全員が聴覚障害のある生徒であったならば、教師は手話者であるだろうから、である。
子どもたちが包摂的な学級で教育されるべきかどうかについては、わたしの研究の守備範囲を越えているが、しかし、もうそうであるならば、この原理が適用されるべきだということは明らかである。
底なし穴に気づかない(頭が回らない)人がいる、気づいているが蓋をする(頭は回るが気を回しすぎる)人がいる。「いい人」はなぜか安全地帯で勝負する傾向があるような気がする。気のせいか。研究論壇にも民主的運動論壇にも安全地帯は存在する。そこからはぐれる。真っ向勝負しても解がみつからない。そういうおはなし、ではない。
ガットマンの閾原理は(カレンのそれも)いわゆる十分主義である。実はアンダーソンも十分主義者だ。彼女たちがそろって「民主的平等」という用語を選択しているのも興味深い。
それにたいしてアーネソンの議論は優先主義に接近している。
十分主義も優先主義も平等主義(狭義)にたいする対抗の意味合いをもつ。どちらも平等化を一義的にはめざさない。これらを平等主義(広義)に含めるかどうかは二次的な言葉の問題。
十分主義と優先主義とは相容れない。でも、どちらも捨てがたい。
十分主義か優先主義かではなく、十分主義も優先主義も、という力業を披露している論者がいるみたいなのでいずれまた。