流行が気になるくせに、臆病なせいかいつも乗り遅れてしまう私ですが、「格差」にかぎっては、この流行語をいつの間にか使っていることに気づきました。ひょっとして流行に乗ってる?
そこで、この流行語の用法に気をつけながら、嶺井正也・池田賢一編『教育格差』(国民教育文化総合研究所15周年ブックレット)を読んでみることにします。いろいろな意味でコスト・パフォーマンスの高い本です。
本書によると
「教育格差」とは「学力が高いか低いか」ということである。
「学力」とは「測定可能学力」のことである。
「教育格差」を生み出す「もっとも主要な要因」は「経済格差と文化資本格差」である。
ということは、生来の能力差は「教育格差」の要因ではない。
生来の能力差に起因する「学力」の差は「差」であって「格差」ではない、ということか。
どうもそうらしい。本書によれば
「格差」とは「上下関係」のことである。
つまり、問題は「差」ではなく、「格」にレレヴァントな「差」である、と。
「格差」にあらざる「差」は否定されていない。
問題(「教育格差」)を解決するには、その要因(「経済格差」と「文化資本格差」)を取り除けばよい。
だが、「経済(力)」の「格差」についても、「学力」のそれと同じことが指摘されなければならない。
いずれにせよ、「能力」から派生する問題群は俎上にのぼってこない。
さて、「経済格差」や「文化資本格差」は居住地の地理的分布を規定し同学歴内婚を促進する。
「校区」を重視する本書の立場からすれば、居住地選択やお相手選びを何らかのかたちでコントロールしなければならなくなるが、さすがにそんなことは書かれていない。
「経済」と「文化資本」をコントロールすることに限界を自覚する態度は健全であろう。
だが、そうなると、問題の解決への道筋はなかなか見えてこない。本書後半の提案を歯切れがよくないと感じるのは気のせいか。
「能力」の分布が「経済(力)」や「文化資本」のそれから独立している(はずだ)、という本書が暗黙の裡に採用している仮説と、その「能力」の分布に応じた「学力」の「差」は許容されうるし、ひょっとしたら、許容しなければならないかもしれない、というこれまた暗黙の規範的前提。
ここから描かれるひとつの構想、こんなのはどうだろう。要因それ自体をターゲットするのではなく、因果の鎖にメス(糸鋸?)を入れるのである。
たとえば中学校における学力評価を相対評価で実施、高校入学者選考は学力内申書一本で実施、そのうえで家計に応じた充実した奨学金給与の実施。
A校の学力1番の生徒は、B校の100番より低いかもしれず、したがって学力入学試験を実施すれば前者は不合格、後者は合格となるところだが、上記の仕組みではそうはならない。
何のことはない、アファーマティヴ・アクションのヴァリアントにすぎない。
「能力」とその「差」から派生する問題群をオミットするなら、いわゆる補償教育は依然として有力な選択肢の一つである。どうしてそれを検討しないのか不思議でならない。もっとも、「オミットするなら」という条件を外せば、話は別である。しかし、本書はその条件の内側で論を紡いでいる。
というわけで、まとまりせんが、私としては、別に流行に乗っかるつもりは一向になかったんですけど、すでに出来上がってしまっている感のある言葉の威力にとくに最近はついつい乗っかってしまったというのはあるかもしれず、その知的無精については反省します。
まあ「格差」言説についての腑分けもぼつぼつ出てきているようだし、この話はこのへんで。