20年近く遠ざかっていたアカデミズムの都に最近出て行くようになってから、ある種の出来事(都の住人たちのアカデミックではない会話におけるアナクロ感覚?)に遭遇し面喰らうこと二度三度。ひょっとしたら、拙のほうが浦島太郎状態なのかもしれませんが。たとえば「一般大衆」という言葉づかい。違和感を覚えます。てっきり死語だと思っていましたから。(※ サブルーティン: この段落のすべての文末に顔文字を付して婉曲の味付けをする)
そんな矢先、たまたま某研究会で小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』を素材にご本人の話をきく機会がありました。正直、氏の洗練されたナイーブさは防御不能でしたが、そのことはさておき、
この本の中で小熊さんは60年安保の時代における「市民」という言葉の採用は「言語体系の変化」もしくは「転換」であると書いています (526, 527) 。だけれども、採集された言説を見れば同時に「一般市民」という言葉が登場してきているのに気づきます。微妙ではあるけれど、それは二様に使われているように読めます。一つは「一般市民の気持ちとしては、マルクス主義にもトロツキズムにも関心がない」 (534) が典型であり、既存組織に属していないことを示しています。特殊に対する一般ですね。もう一つは「一般市民といっても、いわゆるホワイト・カラーはだめですね」 (544) という言い方。とりあえずこれは「一般市民」を「だめ」と「だめじゃない」のサブカテゴリーに分けているだけですが、「市民」カテゴリーのポジティブ・イメージを維持しようとすれば、「だめじゃない」ほうが「市民」と呼ばれるに値することになるでしょう。じゃあ「だめ」なほうは何と呼ぶ?
これより少し後、小田実は「ふつうの市民」という言葉づかいを用いています。小熊さんによれば、それは「『絶対』を避ける志向を表現した言葉」 (772) であり、「『拡散してとらえどころのない』『何もかも』の代名詞」 (773) です。その背景には小田なりの哲学やスタイルがあったのでしょうが、それもこれも耳がよかったからこそだと想像するに難くありません。
かくして「ふつう」なる形容はちっともふつうではない負荷を帯び今日に至ります。同じように「一般」という形容も固有の負荷を、ただし「ふつう」とは逆向きの負荷を帯びてきました。その逆向きの負荷の性質をよく伝えているのは、ひところ流行った「パンキョー」とか「パンピー」といった言い方でしょう。「パンピー」を相手に向かって発すると揶揄的(おれらはちがうけど)あるいはパターナリスティク(ほんとにしょーがないねえ、どれどれ)、自分に向けると自嘲的(どうせおいらは)あるいは反語的(そうじゃないってことはお互いわかってるよね)となります。
話は飛びますが、『論座』12月号に佐藤卓己「『言葉にならない世論 popular sentiments 』から対話可能な『輿論 public opinion 』へ」が載っています。
タイトルがすべてを語っているので詳しい紹介は省きますが、明治以降に登場した輿論/世論という区別、それとパラレルな19世紀「ブルジョア的公共性」/20世紀「ファシスト的公共性」という区別を立て、「『輿論の世論化』に抗して『感情(セロン)の言説(ヨロン)化』に努めることがまず必要なのではあるまいか」と結ばれています。
きれいな整理。努めるべき「世論の輿論化」の手立てを問うのはこの論文の趣旨からして的はずれでしょう。しかしながら、「世論に惑わず」と説く「軍人勅諭」との異同は問われてしかるべきと考えます。
と、つらつら述べてきたことに関してこれ以上突っ込んで考える代わりに、参考までに昔書いた文章を突っ込んでおきます。30代のころに書いた1770年代フランスのお話です。1992年刊の『教育学年報』に載せた論文の残っている原稿(あのころはワープロ専用機 OASIS を使ってました)の一部をコピペしただけなので、公刊されたものとは異なる箇所があります。今となっては評価が変わっていたり許せないダメダメな書き方があったりするので書き直したいし、続き(社会的選択論の創始者+公教育デザイナーとしてのコンドルセ)も書かねばならないのですが。
1760年代から70年代にかけて、小麦取引の自由をめぐりフランス中が右
往左往していた。政策は自由化と規制の間を行き来し、パンの値段の乱高
下は民衆の暴動を頻発させ、そして「哲学者たちも意見が区々にわかれて
いた36) 」。こうした中、1774年8月に財務総監に任ぜられたテュルゴは
、同年9月、小麦取引の自由を復活させるが、不作にともなう在庫枯渇、
隠匿や投機などにより翌75年春にはパンの価格が高騰し、4月末から5月
にかけて<小麦戦争>として知られる大規模な穀物暴動が勃発するにいた
る37) 。
コンドルセは、これより先、テュルゴがリモージュの知事であったころ
彼と親交を結んでいた。「善を為すためには少くとも善き意志と同じくら
い力[pouvoir] を必要とする」(Henry, p.16) と考えていたコンドルセは
、テュルゴを「公共善への情熱とそれを達成しうる地位とを兼ね備え」(H
enry, p.85) た人物として高く評価していた。したがって、テュルゴが財
務総監という国家行政職としては最高の地位に就いたときにはこれを喜び
、75年に自らが造幣監察官に招かれたときには意欲満々であった。折から
<小麦戦争>の最中であり、コンドルセはテュルゴ改革擁護の論陣を張る
ことになる。そして、この過程においてコンドルセの教育論は難題に直面
することになる。これまでになかった対抗理論が立ちはだかったのである
。以下では、この外部からの新しい問題提起が何であったのか、それにコ
ンドルセはどのように対処したのか、その結果彼の教育論にいかなる新し
い局面が開けたのか、あるいは開けなかったのか、を見ていくことにする
。
<小麦戦争>勃発前夜、規制論者ネケールの著書『穀物立法と穀物取引
』38) が出る。この著者はフィジオクラートたちの奉ずる「明証性」を排
して、きわめてプラグマティックな所から発想する。
民衆を養うパンと、彼らを慰める宗教。彼らの頭の中にあるのはこれ
だけだ。彼らは貧窮のためにきわめて狭隘な利害関心さえも奪われて
いる。彼らは普段は富者の無為やこれみよがしの幸福といった光景を
穏やかに支えている無邪気な子供であるが、穀物価格が高騰し、自ら
の生存が不確実になろうものなら、猛り狂ったライオンとなる。そこ
で、正義の諸原理を力づくでも民衆に押しつけようとしても、その力
が一般的感情に逆らおうとする瞬間から、それはもはや力ではなくな
る。(pp.152-153)
不変の正義原理に代わって立法や行政が依拠すべきものとして、ネケー
ルは、民衆の一般的感情の発露である世論を提出する。
人間の本性につきものの誤謬は、いかなるものであれ、もっともな理
由として取り扱われねばならぬ。すなわち、これらの偏見が民衆の本
性に固有のものであるときには常に、そうした偏見は法となる。なぜ
なら、法の目的は王国の繁栄であり、繁栄は公共の幸福にもとづいて
のみ可能であり、そして幸福の本質的条件は、人々がそれについて抱
く感情であるからだ。だから、民衆の情念をある一般的システムに服
させようとするのは思い違いも甚だしい。逆にシステムのほうがこの
情念に結びつかねばならない。つまり、この情念は行政における与件
として存在しているのである。(pp.154-155)
偏見を克服する手段としての教育の可能性についてもネケール悲観的で
ある。
知的能力・理解能力は自然の一般的贈物であり、これは教育によって
のみ発展させられる。だが、社会的身分秩序の影響で、財産の不平等
がある場合には、財産をもたずに生まれてきたすべての人々に対して
教育は禁じられている。というのは、あらゆる生活物資は金銭もしく
は土地を所有している一部の国民の手中にあるからである。そしてま
た、誰も何かをタダで与えたりはしないからである。自らの力以外に
何ももたずに生まれてきた人間は、その力が発達するやいなや、財産
所有者たちに仕えるためにその力を捧げなければならず、そのように
して一生涯を続けていかなければならない。(pp.156-157)
以上の議論をネケールは「人間の本性[nature humaine]」から説き起こ
している。この本性=自然が当時のフィロゾーフやエコノミストたちの説
くそれと著しく異っているということについては言うまでもなく、レトリ
ックの域を出ていないが、しかしネケール流の「人間の本性」は現存社会
の不平等の源泉と構造についてのいわば自然史的な洞察に裏づけされてい
る。
彼によれば、民衆の貧窮は、その時々の政府の無知や不行跡のせいでは
なく、一般的に「財産所有者たちのもっている権力、すなわち[...] 労働
と引換えに必要最低限の賃金しかあたえない権力」がその「永遠の源泉」
である(p.166) 。そして、この権力は「原理的には、今日を生きるために
自らの労働を売る人々と、たんに自らの贅沢と富を増やすためにそれを買
う人々との間に存在している驚くべき不平等に、その根拠を有している」
(p.166) 。ネケールは、この示差的関係の端緒的起源を示してはいないけ
れども、一旦それが成立するや、その関係自体が財を集中化させ労働者間
の競争を激化させることにより、自己増殖を遂げるということを論証して
いる(pp.167-169)。
以上のようなネケールの議論が、結果的には現状を肯定する雄弁な弁護
論であることは確かであるが39) 、にもかかわらずそこには、マルクスが
指摘しているように、「階級としての両階級の対立がすでに見事に示され
て」いるのみならず、富と貧困の対立が「知識と労働との分離」を促し、
そして「前者が、それ自身資本として... 後者に対立する」ことの洞察が
ある40) 。同時代のディドロもまた、これを「無為に対して労働を、富者
に対して貧者を擁護する」ものとして高く評価し、「いまだかつてこれほ
ど興味深い書物を読んだ覚えがありません」と最大級の賛辞を送り、そし
て国政担当者がその内容を理解しようとすることはまずないだろうと述べ
ている41) 。
テュルゴ改革が「啓蒙運動を再統一した42) 」という後世の評価に反し
て、コンドルセは、啓蒙の政治的実践という場面において、エコノミスト
・アンシクロペディスト・フィロゾーフといった肩書をもつ人々の間に分
裂が萌してきていることを十分に自覚していた43) 。そして1775年から翌
年にかけて数々の反論を発表している。しかしながら、敵対者たちの重要
な論点のいくつか、とりわけ貧困の源泉や富の一極集中の問題、それが民
衆の教育に及ぼす効果についての言及はほとんどない。こうした批判の欠
如を確認したうえで、コンドルセの議論の検討に移る44) 。
民衆を規定する二つの基準、すなわち「経済的基準」と「知的文化的基
準」45) とを自由時間を媒介にして関連づける議論は、すでにヴォルテー
ルにも現れていた46) 。しかし、彼にとって民衆の貧困と無知は、社会が
存続していくための先験的な前提条件であったのにたいして、ネケールと
ディドロにとっては社会経済的必然事である。したがって、少なくとも彼
らにとっては、「民衆は現に無知であるが、これからもつねに無知であり
つづけるだろう47) 」という文言は、ヴォルテールの場合とは異なり、価
値命題ではない。
コンドルセの描く民衆像は文脈によって多様である。民衆とは、たとえ
ば「貴族層に対しては貧民層であり、自らの労働力のほかにはほとんど何
も持たない賃労働者大衆であり、都市の金融ブルジョワに対しては農村の
その日暮らしの日雇人夫であり、さらにまた、より上位の諸階層によって
助長された不公正に為す術もなくゆだねられている無特権者であり48) 」
、そして何よりも無知であり、偏見をもつ群衆である。民衆暴動について
の次の比喩的記述は、彼のこのタイプの民衆観をよく物語っている。
民衆は、医者が薬をくれないからといって、その医者に対して腹を立
て、毒を盛る香具師に信頼を寄せ、彼のもとに駆けつける病人に似て
いる。(p.51)
この場合、問題なのは、病気そのものではなく、医者に対する不信と香
具師に対する信頼の背後に存している民衆の思考様式である。つまり、「
暴動を引き起こすのはパンへの要求ではない。暴動は罰せられないであろ
うという民衆の考え、政府は彼らのために小麦を安く保たなければならな
いという彼らの確信」がそれを引き起こすのだ、とコンドルセは考えてい
る(p.45)。この「確信」がいわゆるモラル・エコノミーの内実を成してい
たということについては言うまでもない。しかしながら、コンドルセにと
って、それはモラルではなく、偏見でしかなかった。「穀物取引が競争原
理の働く範囲内で繰り広げられていたら、フランスの消費者たちは、総体
として、より大きな余剰を享受したであろう49) 」という最近の研究結果
からみれば、暴動を偏見に帰するコンドルセに理があったといえないこと
もないが、にもかかわらず彼が、この闘いを異質の道徳原理どうしのそれ
と捉えず、科学vs偏見という当然勝つべき闘いとみなしていたことは致命
的であった。改革の挫折が明らかになったとき、彼は「快楽と苦痛とに敏
感に左右されやすい獣の群と同じように世話することのできるあてずっぽ
うの民衆」に対する「嫌悪感」を隠すことができなかった(Henry, p.277)
。
コンドルセの体験した民衆の事実は以上のようなものであったが、他方
彼は挫折するに値するだけの期待感をも民衆にたいして抱いていた。
コンドルセもまた「民衆は疑いなく愚かである」ことを承認するが、「
だがそれは彼らの罪ではない」、なぜなら「知識を得る手段を与えられて
いないからである」(pp.8-9, 15)。ゆえに彼は「すべての諸個人を包含す
ることができるような真にその名に値する公教育」を提案する(p.193) 。
ここでも依然として「公教育」はスローガンの域を出ていないが、いくつ
かの重要な論点がつけ加わっている。
第一に、無知による誤謬の打破可能性、民衆の教育可能性である。この
点に関する彼の口調は、反対者が量質ともに膨大であるだけに悲壮感さえ
漂っており、時論として割り引いて読んでも、それは論証抜きの一種の信
仰告白の様相を呈している。「たとえ人間の幸福への期待が誤りであると
しても、それは唯一の有用な誤謬、人類から奪い去られてはならない唯一
の誤謬である」(p.194) 。
第二に、偏見が民衆のみの属性ではないということ、つまり「きわめて
教養ある人々[les hommes les plus 0clair0s]」の偏見の問題である(p.9
) 。
第三に、民衆が偏見を脱し自立するために獲得すべき知識の量と質への
関心である。「いかなる法律家いかなる財政家といえども法解釈や財政立
法の全部を理解したと豪語することなどできない... 。しかし、我々は、
我々の前に明瞭な形で提示される単純な観念であれば把握することができ
るし、またこれらの観念にもとづいて的確に推理することもできる」(p.1
5)。
以上を要するに、コンドルセは、民衆の教育可能性、その意味で「民衆
を構成している人々が皆平等である」(p.196) という確信のうえに、能力
差の問題と知識の有無の問題を区別し、さらに後者に関して、その知識の
質と量の問題を区別する視点を築き上げつつあった、ということができよ
う。ここに至って、無知と偏見という民衆のメルクマールを既存の特定階
層に実体化させるという思考法は相対的に後景に退き、一種の規範的・政
治的民衆像が成立することになる。
さて、こうした二つの民衆観の関係はどうなっているのか。
民衆のあいだで事実上共有されている見解[opinion] にア・プリオリに
規範力を認めるネケールらの議論をコンドルセは斥ける。彼によれば、必
要なのは公論"opinion publique"であって、衆論"opinion populaire" で
はない。両者の区別と関係は、"opinion" 概念についての次のような分節
化のなかに表現されている。
第一に知識人の"opinion" 、これはつねに公論に先行し、最終的には
公論によって法律を制定させる。第二に民衆[peuple]の"opinion" を
引きつける権威ある当局者の"opinion" 。そして最後に衆論。これは
民衆のうちのもっとも愚かでもっとも下劣な部分の"opinion" として
存在しており、それが影響力を発揮するのは、民衆がまったく取るに
足りない存在と思われているような国々においてのみである。そうし
た国々では、衆愚[populace]が時として、貧弱な政府に向かって、自
分たちを何がしかのものとみなすよう強制することがある。(p.201)
かくして、まず知識人の"opinion" が誤謬を含まないものとして想定さ
れ、そのもとに"peuple"がありうべき公論の担い手として予定される。し
かし、この"peuple"はネガティヴな"populace"に変ずる可能性を秘めてい
る。そして、この"populace"に「へつらう」当局者によって"peuple"に「
偏見が与えられる」(p.204) ことでサイクルが完結する。それを断ち切ろ
うとするコンドルセの希望は、"peuple"と"populace"を概念的に区別した
うえで50) 、前者に依拠して公論を再建することにかかっていた。そのと
き彼の関心の核心にあったものは、実際的な社会・経済問題の彼方にある
「権力と明智[lumi res]との間、社会科学と政治行為との間に存する関係
という問題50) 」であった。
とりわけ連れ戻すことが重要なのは公論である。どうしてそれに絶望
しようか。小麦取引、それが地球の運行とどうして違うというのか。
(p.207)
1776年5月、テュルゴ内閣の更迭とともに、「公共善のために働く」と
いう「素晴らしく」も「短すぎた」コンドルセの「夢」は終わった51) 。
民衆への「嫌悪感」が残った。しかしながら、彼にとって幸いなことに、
彼の構想する公教育が裏切られたわけではなかった。そのようなものはま
だ存在していなかったのだから。したがって1779年には、以前にも増した
確信を込めて、「真理は民衆にとってつねに有用であり、また人民が誤謬
をもっている場合には、彼らからその誤謬を取り去ることが有用である」
と断言し、さらに、民衆を永遠の無知の状態に保つことによって自らの支
配力を維持する啓蒙エリートの存在に反対することができた52) 。だが、
それでもなお、民衆が偏見のうちにとどまり、そしてとりわけ知識人たち
がそれを支持したという事実は依然として消えない。コンドルセは、こう
した事態は「道徳諸科学を研究する方法が自然諸科学を研究する方法ほど
にはよく知られていないと事実に由来している53) 」とみなす。そうして
、彼がこの社会的意思決定の転換」を見通すことのできるような「道徳諸
科学の方法」を確率論のなかに探し求めるのは1780年代のことであり、ま
た、この研究の後を追うように、彼の思考から欠落していた社会の階層化
や分業の問題が登場してくる。その時にはじめて、コンドルセ公教育論の
検討が可能になるだろう。