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研究者の属性と研究または「物事が外観どおりであることは・・・」
ジェラルド・コーエンの本が翻訳された。『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』(渡辺雅男・佐山圭司訳、こぶし書房)。それより少し前、OUPから記念論文集が発刊されている。そのタイトルは『The Egalitarian Conscience』。巻末でコーエンが謝辞を述べている。彼はこの本の予定タイトルを編者から聞いたとき抵抗したそうだ。
『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』のなかで、私は聖性へのあらゆる申し立てを否定しました。その本の注の中で私は、誰かが私に次のように問うかもしれないと言っています。「あなたが『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』を書いた平等主義者なら、どうしてそんなに裕福なのですか」、と。この問いを場違いだとはみなしませんでした。できるなら、私はあの本を『もし私が平等主義者なら、どうして私はこんなに金持ちになっちまってるのか』と呼びたかったくらいです。でもそうしたら、自己没入という悪徳を公衆の面前に晒してしまうことになったことでしょう。
つらつら考えるまでもなく、自称平等主義者の金の亡者や自称フェミニストの亭主関白はそこらへんにうじゃうじゃいる。かかわり合うのは時間の無駄、ストレスの源なので、お近づきにはなりたくない。それが自分だったら平等主義者をやめ、フェミニストをさっさと引退する。偽善者でいるよりも悪者でいるほうが(偽悪と見られる可能性も残っていたりして)楽。思想信条は自由であることだし。もっとも、自分が偽善的に振る舞っていることすら自覚できていない「いいひと」「しあわせなひと」もいる。これは人としての属性の話である。

では、その人が研究者であり、公衆の面前で平等主義的言辞を並べ立てているとしたらどうだろう。許せない? でも、その人の研究的主張が、真性平等主義(ここも「自称」としておくべきところか)を属性としてもつあなた(または私)の研究的主張と規範的・機能的に等価であるということはありうる。
とするなら、研究と研究者の属性は切り離して取り扱うことができる、とひとまずは言えそう。とはいえ研究者も生身の人間だから属性についての情報は不確実なほうが、つまり面識がないほうが精神衛生上よろしい。知らぬが仏。

話を戻すと、コーエンが問うているのは「人となり」ではなく「研究」である。どう生きれば平等主義を現実に生きるということになるのか、対平等主義のラスボスは誰か、を研究的に追究しようというのだ。タイトルを変えなくて正解だったと思う。「悪徳」どころかかえって「聖性」が際立ち坊主臭さが増しそうだから。コーエンの財産目録なんか知ったこっちゃない。
もちろん、コーエンの人柄には好感を抱くが、それはそれこれはこれである。近い将来、今日を振り返って、「えっ、それって平等主義研究の定番じゃない。どうしてそんな当たり前の重要な問題を研究しないでいられたの?」という時代が来る(のか?)。

先に進む前に、思い出したので、別の話を挟みます。

SF作家ジェームズ・ティプトリー・ジュニアの短編集『愛はさだめ、さだめは死』(ハヤカワSF文庫)の冒頭に、著名なSF評論家ロバート・シルヴァーバーグの「ティプトリーとはだれ、はたまた何者?」が収められている。その方面の趣味の人には周知のエピソードだが、匿名作家ジェームズの本名は実はアリスだった。
その事実が明るみに出る前、シルヴァーバーグは「彼」とその作品について次のように書いていた。
それはおそらく五十代前半の男性、たぶん独身で、野外生活を好み、毎日の生活に落ちつけないものを感じ、この世界の多くのことを見聞してきて、それをよく理解している人物だ。・・・
ティプトリーの作品は退屈とは無縁である。どれもひきしまった筋肉質で・・・
これ(=「男たちの知らない女」)は徹底して男性的な語り口で書かれた深遠なフェミニスト小説であり、男女を問わず、女性解放戦争の前線に立つ人びとの熟読玩味に値する。
フェミニストたちにとっては痛快このうえない大失態。もっともシルヴァーバーグのために彼の「潔さ」を示す三年後の文章も紹介しておく。
まったく、なんべん教えられたらわかるのだろう ― “物事が外観どおりであることはめったにない”のだ。アリス・シェルドンよ、これらの面でわたしを教育してくれたあなたに、ここで感謝をささげたい。
ここで、もしアリスがジェームズのままこの世を去っていたら、と想像してみるのは興味深い。たとえば、シルヴァーバーグの失態に喝采を送ったフェミニストたちのジェームズ評価とか。

また話を戻すと、このサイトでも紹介したことがあるが、英国労働党のアボットの学校選択行動(息子を公立ではなく私立に入学させた)の是非をめぐってネット上で展開された議論を追っていくと、いつのまにか参加者たちが自分の居住地や子どもの通学先を自説の前置きとして書き込むようになっていることに気づく。
また、『How Not to Be a Hypocrite どうすれば偽善者にならなくてすむのか ― 道徳的に思い悩む親のための学校選択』を著したアダム・スイフトも、同書の序文で、生い立ちや自分の二人の子どものことに触れている。

ブラボー、待ってました!なのだが、少し落ち着いて考えてみると、う〜ん、自らの属性を開示宣言するというこの種の問題提起のやり方は過渡期に特有のものであると思う。いやむしろ、言い方をかえれば、この戦術の有効期限は短期であってほしいと願う。有効期限が切れるまでには、平等主義を唱えつつ遺産相続に励む天真爛漫さなどなどは、わざわざ「敢えて」と腹を決めて撃つほどのこともない、ごく普通の研究素材になっちゃっていますように。

とえらそうなことを書いてまいりましたが、最後に「たかが研究じゃねえか」と逃げを打たせていただきます。

T-OFFICE   2006-12-27

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