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2007-01-06

「○○○は俗説だ」の俗説化という自己言及的愚を犯しては・・・
・・・元も子もないので、「規律訓練社会から監視社会へ」が「俗説」だということは、監視社会論が陳腐だということを必ずしも意味しないということあたりから。


【Part A】
他人を傷つける、というのは、そういう可能性があるというにすぎないが、傷つけることがない、というのも、偶然そうだということで、これまた可能性という以上ではない。個人のわがままな行為 ( = それ自体は合法的な行動だったり、財産の私的な使用だったりする: 引用者 ) に含まれる不法とは、そうしたもので、社会政策上の罰の正当性は、そうした侵害の可能性を究極の根拠としている。
目に見える社会生活のさまざまな慣性は、無限に枝分かれしつつ結びついている。だから、なにが有害で、なにが無害か、また犯罪についてなにが疑わしく、なにが疑わしくないか、なにが禁止され、なにが監視されるべきか、あるいは、なにが禁止、監視、嫌疑、審問、釈明を免ぜられるべきか、といった境界が、もともと存在するということはない。境界をどこに引くかは、習俗や、体制の精神や、そのときどきの状況や、目前にせまった危機などによって決まってくる。

【Part B】
市民社会は、一般的な(共同の)家族という性格をもつから、教育が市民社会の一因となる能力と関係するかぎりで、両親のわがままな思いを排して、教育を監督し指導する義務と権利は、市民社会のもとにある。とりわけ、教育が両親の手を離れ、他人によって完成されなければならない場合は、そうである。また、監督や指導をおこなうための公共の教育施設を作るのも、市民社会の義務であり権利である。
同様に、浪費生活によって自分の生計と自分の家族の生計を危うくする人びとについて、市民社会は、かれらの後見人となり、かれらにかわって市民社会の目的やかれらの目的を遂行する、義務と権利をもつ。
が、浪費といったわがままだけでなく、偶然の事情、肉体的条件、外界に横たわるさまざまな事情が、個人を貧困へと追いやることもある。そのとき、市民としての欲求がなくなることはないが、自然からなにかを得てくるわけにはいかず、家族という血縁の絆も絶えたとなると、貧困状態に追いやられた個人は、社会的便宜のすべてを ― 技量や教養を獲得する能力、司法活動や保健活動の対象となる便宜、いや、しばしば宗教の慰めすらも ― 大なり小なり奪いとられる。貧乏人については、公権力が家族の役割を引きうけ、日常生活の不足を補うだけでなく、貧困の境遇とそれを不当だと思う気持から発する、労働ぎらいや、ひねくれ根性や、その他の悪徳の矯正に努めるのである。
どんな個人も、その自然な生活圏においてすでに、貧困やありとあらゆる窮乏に陥る可能性があるが、その貧困や窮乏には主観的な側面も備わっているのだから、その特殊な事情、および、当事者の心情や愛を考慮した主観的な援助もまた、必要とされる。かここでは、公的な施策がどんなにととのったとしても、道徳的な援助の求められる余地が十分にある。が、主観的な援助は、それ自体も、その効果も、偶然に左右されるものだから、社会としては、応急措置と救済策を考える上で、社会全体の役に立つ施策を案出し実現するよう努力すべきで、主観的な援助を必要としない方向にむかうのが本筋である。


Part A における、社会政策発動の「究極の根拠」としての「可能性」という指摘は、D. ライアン『監視社会』(河村一郎訳、青土社、2002。以下の引用は同書の第7, 8章から)が W. ボガードから抽出している「ハイパー監視」のアイディアと交錯する。
「ハイパー監視的」管理は、監視を強化し、その絶対的極限にまでもたらそうとする。コンピュータの演算速度は、監視が、いわば、自分自身を追い抜き、自分自身に先立って発動することを可能にする。それは、リアルタイムの行動や出来事の生起を先取りした先行呈示・先行記録のテクノロジーと化す。地下鉄の駅における自殺の企てを予知するクロマティカ・システムがよい例だろう。
秩序という滅菌された環境を目指す近代的監視に対して、シミュレーションはそれを先に進め、完全な無菌状態を熱望する。
シミュレーションは、監視の極限を越えて、管理されるべき空間と時間が製作されたものであるかのようヴァーチャル・リアリティにまで進もうとしている。環境は完全に管理しうる。実際、もはや管理は必要ない。環境が管理なのだ。
もっとも、ライアン自身は、来るべき「適切な監視理論」のためには、このような知見だけでは不十分だとみている。彼によれば、古典的な社会理論に「情報ネットワーク社会という勃興中の事態の鍵を探し求めるのは時代錯誤である」が、「新たなテクノロジーを考慮した一部の傑出した社会理論も、監視の提起する諸問題を十分に正当には扱えていない」。
というわけで、古典的理論と現代的理論の「架橋」が試みられなければならず、その「パッチワークの絵柄は、生身の個人についての、完全な文化的強迫観念についての、そして監視のポリティクスを導く倫理についての、首尾一貫した見解から与えられるのでなければならない」とされる。
「コンピュータ化された監視は、近代とポストモダンを跨ぐ」のである。
現代的な知見に付されるべき留保としては、「電子的に強化された監視の旧来の諸手法も存続・拡大しているということ」(訳文ちょっとヘン?)、監視シミュレーションは「独力で作動しているわけではないということ」(監視システムは作為によって生まれる。誰かがそれなりの資金を拠出して設置される)が挙げられている。



Part B で語られているのはいわゆる道徳主義(モラリズム)ではない。端的にそれはパターナリズムである。
「社会政策は、一般に、市民社会の統治と定義でき、目的とするところは、生活上の正義(法)と幸福」であり、したがって、社会政策を通じて、「市民社会は、各人を各人の意に反してまでも守らねばならぬ」という事情をそれは語っている。そして、その背景にあって主導的なのは、特定の徳目リストをもつ道徳律ではなく、個人と社会全体にとっての幸福(効用)計算という乾いた、そのかぎりでは無臭の代替道徳である(という理解は浅薄か)。
どこかプラスティックなその感触は今日の監視システムと似ていなくもない。



書き忘れたが、Part A, B は、鋭敏な方ならとうにお気づきのように、ヘーゲル『法哲学(講義)』からの抜粋である。直前の記事を書いているときにふと思い出したので、この際だからちょっと引っぱり出してみた。 引用は作品社から出ている長谷川宏訳より。文中「社会政策」の原語は“Polizei”。中公版『世界の名著』シリーズの藤野渉・赤澤正敏訳では「福祉政策」。

俗説横行して疑似問題の無限増殖を来せるに注意すべし(このセンテンスは『成城だより』からのパクリ)。

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