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2007-01-08

シンポジウム「ジェンダー学と生物学の対話」 または 赤川学
スーパーのレジ横に積まれた「ご自由にお持ちください」の冊子の類と同じように扱われる、しかし、お得な情報が書かれているわけでもクーポンが綴じ込まれているわけでもないので、手に取る人はもとより振り返る人すらほとんどいない、担当職員がそれらをその場所に置くときだけ自らの存在を主張し、いつのまにかどこへともなく消えていく、そんな存在感の稀薄なパンフレットや定期刊行物の一群が大学宛には送られてくる。 たとえば日本学術会議が発行している月刊誌『学術の動向』
たまたま、どこか憂いをにじませたカメラ目線の女性の表紙が目についた。どこかで見たことあるけど思い出せないので、疑似餌につられた魚よろしく二三歩寄っていくと、「特集 ジェンダー学と生物学の対話」という見出しが見えた。ああ、らいてふさんだ。
というわけで、昨年7月に開催されたシンポジウムの記録を収めたこの2006年11月号を読んでみることにした。

以下は仕掛け人である江原由美子の「質疑応答における主要な論点」からの抜粋。
討論においては、上野千鶴子氏の講演の中で紹介された「セックスはジェンダーだ」というジュディス・バトラーの言葉の解釈が、一つの焦点となった。「生物学的性差を意味するセックスが、社会的文化的に形成されるジェンダーによって、いかにしてつくられうるのか。科学的研究の中で男女の性別によって身体的性差が見出せるということが、明白に示されているのに、こうした生物学的性差はジェンダーによってつくられたものだというのか、それはありえないことではないか」という疑問がフロアから提起された。上野千鶴子氏はこの質問に対し、このジュディス・バトラーの言葉の中で使用されているジェンダーとは、言語的カテゴリーとしてのジェンダーであり、この文脈の中では「セックスはジェンダーだという意味は、生物学的性差もジェンダーという言語的カテゴリーによって認識されるという意味である」という回答をされた。この回答に対しては、さらにその意味を問う質問が出された。また上野氏の回答の意味を、生物学批判として(すなわち「生物学は、ジェンダーという言語的カテゴリーによってしか認識していないのだから、『イデオロギー的な歪み』から自由でないとらわれた認識だ」という意味の批判として)受け止めたうえで、それに対して「科学者は、たとえ言語的カテゴリーを使用していても、科学的な手続きをきちんと踏むことによって科学者は自らの仮説の間違いや枠組みの欠点などについて、十分認識することが出来る」という反論が出された。また「仮に実証的科学的研究に限界があるとして、それ以外にどのような妥当な認識方法があるのか」等の質問がなされた。
江原の整理によれば、バトラーの命題は、「経験科学的水準の議論においては」「到底理解不能な命題となってしまう」けれども、「しかし、認識論的水準の議論においては」「全く理解不能な命題ではなく、むしろ当たり前で自明なことを述べているに過ぎない」とされる。
つまり、当該命題は、「「生物学的な性別・性差という『知識』も、知識である以上、社会的文化的に形成されている知識である」という命題となる」。

だが、「当たり前で自明」という物言いに、「まあまあ生物学者の先生方、そう眉間に皺を寄せるほどのことじゃありませんよ。だってこういうことなんですから。でしょ?」というオトナの対応(ことさら荒立てて事を構えるようなことを極力避ける? まあ日本学術会議という場所柄をわきまえてということなのかもしれませんが)を嗅ぎ取ってしまうのは気のせいか。
子どものナイーブな疑問や反発をなだめさとすかのような穏やかな口ぶりには裏返しの尊大さをどうしても感じてしまう。
で、ここから先は、『大航海』57号に掲載された赤川学「性差をどう考えるか 本質主義/構築主義論争の不毛をこえて」を読みながら。(赤川『構築主義を再構築する』に再録。以下、引用は同書から。)
なるほどセックス(自然な性差)という観念が、人びとの活動の成果として共同的に生み出されてくることはたしかだ。それは、科学的知識と言われるものも、人間の実践によって生まれてくるという、自明のことを指摘しているにすぎない。そして人間が行う実践である以上、当然のことながらそこには、権力や利害関心がつきまとう。だが科学は、それを実践する者が、どれくらい自らの利害関心をこえて、万人が納得しうる妥当性をもった理論・命題を構築できるかを問うて来たはずだ。仮に一〇〇%の真理といえなくても、反証可能性などの基準を用いて、相対的に妥当な知識とそうでない知識を区別してきたはずだ。だがバトラーの物言いに従うなら、「相対的に妥当かいなか」という線引きは、もはや無意味なものになってしまう。(177)
先のシンポジウムで生物学者たちが提起した問題はこの水準で受けとめられるべきであった。

赤川はさらにすすんで、バトラー風の「物言いは、性差の生得性に関して証拠をつきだす本質主義者の批判をかわすための言説的防御装置となっているのだろう」(178) と勇断を下す(こんなこと言ってしまって大丈夫なのか?)。 もちろん赤川は「社会学の道具」としての構築主義の「有用」性を一概に否定しているわけではない。赤川流構築主義3。

さて、「本質主義/構築主義」を「生得的/獲得的」へと微妙にずらしながら赤川の議論はすすむ。
彼が主張したいのは、論文の副題にあるように「本質主義/構築主義論争」が「不毛」だということである。 それが「不毛」であるのは、端的に、次のような問いに答えることができないから。
有色人種と白人、障害者と健常者には違いがあるとして、その差異を認めてなお、どの点において異なる処遇を受けることが正当であり、どの点においてそうでないのか (182)
「平等な機会」が保障されたり、「人選や合否が客観的な基準に基づいて行われる」という制度が設計され、実現しているかいなか (184)
これらの問いを考えるとき、「性差が生得的であるか獲得的であるかは、どうでもよい」(184) 。 だからそんなことにこだわるのは「不毛」なのである。

対して、赤川流構築主義(構築主義3: 社会問題の経験的プログラムとしての)は、「「性差や性的思考は生得的か獲得的か」という問いが「生得的なら変えようがない。獲得的なら変えられる(変えるべきである)」という前提を伴ってしまうことを」「積極的に主題化しうる」(181) ことによって、先の問いに答えを出そうとする。

これと酷似した問題設定を以前に読んだことがあるので、書き留めておく。
われわれのほとんどは、環境的不利よりも遺伝的不利の諸効果を埋め合わせるほうが困難である、 と仮定している。 われわれの遺伝子は本質的に変えることができないのであるから、 それらのもたらす結果もまた変えることができないとわれわれは仮定する。 環境は変えることができるのであるから、その諸効果も同様に変えることができるとわれわれは仮定する。 しかし、原因の可変性とそれらの結果とのあいだには必然的な関係は存在しない。 次の二つの例がこの点を劇的に明らかにしてくれるだろう。
 第一。二人の耳の不自由な子どもについて考察しよう。 一人は幼いときの病気がもとであり、もうひとりは遺伝的欠陥が原因である。 一人の子どもの耳の不自由さが遺伝の産物であるのにたいして、 もうひとりの子どもの耳の不自由さの原因は環境的なものであるという事実は、 問題の物理的性質にかんして、あるいは治療の見込みにかんして、われわれに何も告げない。 いかなる治療も不可能であるならば、子どもは二人とも同じ教育的諸問題に直面することになる。 「正常な」生活に必要とされるさまざまなスキルや性格特性を彼らが発達させるかどうかは、 彼らの親、彼らの学校教育、およびその他の特徴にかかっているのであって、 彼らの耳の不自由さの当初の原因に左右されるものではない。 彼らを教育することのコストもまたこれらの要因に依存しており、 彼らの疾患の起源には左右されない。
 第二 ・・・
(Christopher Jencks, “Whom Must We Treat Equally for Educational Opportunity Be Equal?” in Ethics, 98)
というわけで、赤川の主張、というかむしろ彼による議論の整理には基本的に賛成である。
性差という事実(が何に由来するのか)と、性差に関する社会制度設計の原理とは、まったく別の話なのである。われわれが目指すべきなのは、「差異がある。だから異なる扱いをすべき」という本質主義でも、「差異はない。だから同じ扱いをすべき」とする構築主義でもなく、「差異はある。だからこそ、同じ扱いをすべき」という、別の形の平等論なのである。求められるのは、そのときいかなる原理を用いて制度設計すべきなのか、ということなのである。 (185-186)

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