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2007-01-18

フランス・パンを囓ってみるも固すぎて消化不良なり
ピエール・ロザンヴァロン『連帯の新たなる哲学 ― 福祉国家再考』(北垣徹訳、勁草書房、2006)は「受動的福祉国家」から「能動的福祉国家」へ、言い換えれば「補償から社会参入へ」 (129--) を熱心に説いている。いわゆるワークフェア workfare の主張である。
彼はクリントンによって採用されたこの種の(脱?)福祉理念がレーガンのそれにつながるものであること、時として slavefare と非難されていることを承知のうえで (177--) 、あえてそれに「左翼の未来」 (233) を託している。う〜む。

ところで、表紙カバーに印刷されているこの本の副題の仏語原文は“Repenser l'Etat-providence”。 この語については田中拓道(たくじ)氏の解説が明快である(「社会的シティズンシップの両義性」 in 『創文』481号、2005年11月)。
 フランスで「福祉国家(Etat-providence)」という言葉は、きわめて特殊な含意を持っている。それは財の配分を主たる手段として国民に福祉を提供する国家(Welfare State)ではなく、「神の摂理(Providence)」を体現する国家、すなわちあらゆる秩序を一手に引き受けるようなこのあり方を指している。この言葉は、十九世紀半ばの自由主義者、保守主義者のみならず、社会主義者によっても否定的に用いられた。彼らによれば、「福祉国家」とは、フランス革命によって伝統的な紐帯から切り離されたバラバラの個人を統治するために生まれた集権的・専制的な国家である。こうした国家に対抗するために、彼らが共通して依拠したのが、人々の相互的な権利・義務関係から構成される道徳的集合としての「社会」である。十九世紀フランスでは、保守主義から社会主義に至るまで、この「社会」の内実をめぐって思想的な競合が繰り広げられる。
というわけでle social
二十世紀半ばに至るまで、フランスで「福祉国家」ではなく「社会保険(assurance sociale)」「社会保障(securite sociale)」という言葉が好んで用いられたのは、以上のような歴史に由来する。「社会保障」とは、国家が財の再分配を引き受け、個人の生存補償を一元的に担う体制(ベヴァリッジ型福祉国家)とは対照的に、自発的な相互扶助ネットワークを社会全体に拡張するという理念に基づいている。国家による直接的な社会への介入は、最小限に抑制されるはずであった。
しかしながら、ジャック・ドンズロらフーコディアンたちはその線引きが実はスカスカであったということをつとに強調してきた。
福祉国家の危機という事態のおかげで、私的なものと公的なもの、また国家と市民的なものとの境界が、ますます曖昧になってきているのだ。そしてこの境界の曖昧化こそが、一世紀以上にわたって、社会的なるものの根底にありつづけてきたのである。(ドンズロ「社会の動員」 in 『現代思想』1994年4月)
こうした研究の中では「社会」はまた別の様相を見せる。
ドンズロ 『家族に介入する社会』 (宇波彰訳、新曜社、1991)。 原題はLa police des familles。 そこで描かれている police とは 言ってみれば 必ずしも国家が手を下さずとも摂理を生み出すことを可能にする統治技法のことである。

さて、そんなフーコー = ドンズロ系の教育研究者たちが論文を寄せた本がある。 Governing Children, Families and Education: Restructuring the Welfare State, (2003)
編者4人(M. N. Bloch, K. Holmlund, I. Moqvist, and T. S. Popkewitz)による基調論文の末尾近くから抜粋 (21-22) 。
20世紀の間に、子ども、家族、アイデンティティや conduct や正常/異常にかんするわれわれの分別、これらを policing する新しい諸々のテクノロジーの融合として社会国家が出現した。 近代的な公立学校、乳児期および幼児期のプログラム、ヘルス・ケア、発達と良き親業とにかんする「科学的」真理、他者への配慮といったものを含む多種多様な干渉をつうじて、社会国家は・・・自らが擁する人々の世話をする care for ことができた。しかし、国家的実践の理性・理由は「遠く離れたところからの操縦」も含んでいた。 自由とプライバシー、家族構成員の主観的なアイデンティティと conduct 、ならびに正常/異常の判断はすべて、歴史的に規定された文化的知識体系にかかかわる社会的に管理された権力効果であった。 鍵は、権力/知識が「理性(理由)」の形式とどのように関係しているかということのうちにあった。 20世紀末葉と21世紀初頭における「社会国家の衰退」ともよばれる事態へと足を踏み入れているのだけれど、われわれの考察にとって鍵となるものは依然として、正常でありリーズナブルであるとみなされるものと権力/知識がどのように関係しているかということである。
ニコラス・ローズが次のように指摘している。 ここ数十年の間に、グローバル・ポストモダン・ポスト産業社会へと次第に移行するにつれて、社会政策は、あるいは社会国家は変貌してしまった。 市民のケアを立法により実現することを試みる社会国家に代わって、今や非社会国家 nonsocial state が、他者と他者のケアならびにわれわれ自身にかんする新しい文化的思考方法を構築する諸々のアイディアや知識の流れをつうじて新しい統治方法となる。 社会国家は市民たちの面倒を、抽象的に、みるために発展したのだが、ポスト産業社会的「知識」と「ネットワーク化された」社会においては、今や地域コミュニティと諸個人がお互いの面倒をみるのである。
「社会国家」の衰退。そして「新しいコミュニティ」が希望への扉、少なくともその重要な一つであるらしい。
なるほど、上記田中氏の別の論考 「フランスにおける社会的包摂論の系譜」 によれば、ドンズロも「新しい共同体主義」の必要性を説き、自らその実践にアンガジェしているらしい。しかしながら、
これまでのところ、彼の唱える参入政策はほとんど効果を挙げていない。第三セクターやアソシエーションは「参入」を可能にするだけの十分な資源や能力を保障されず、期待された効果を果たせなかった。ドンズロ自身、地域コミュニティ政策は、政府の責任に代わってアソシエーションや個人の自発性を強調するにとどまり、実際には排除された者への新たな抑圧をもたらした、と振り返っている。ドンズロの議論は、従来の「職域的連帯」から逃れた人々の「参入」を促進するために、地域コミュニティに立脚し、様々なアソシエーションと地方公共団体との協力関係を築こうとするものであった。しかしそれが従来の体制の補完にとどまる限りにおいて、資源の欠如と責任の細分化・個別化によって、むしろそれは「排除された人々」への新たな抑圧へと転化しかねないことが示されている。
いよいよこんがらがってゆくばかりなのであった。

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