『中央公論』2月号に掲載されている赤林英生「的外れな日本の教育バウチャー論争」は読後感のいい触発的な論文でした。
これから書くのはそれと関連する、けれども対照的に気が塞ぐ光景のお話です。
文科省に設置されている「教育バウチャーに関する研究会」(小川正人座長)第6回(2006年9月)の
議事要旨 を読んだ。この日は規制改革・民間開放推進会議のメンバーを招いて話を聴き質疑応答という趣向。推進会議メンバーのキレキレ発言もあり久々に読ませる(座長さんには気の毒だが)。
どうしてキレたのかはお読みいただくとして、読みつつ考えさせられた、といっても感想の域を出ないのだが。
学校選択制(ヴァウチャーを含む)についての評価は未だ定まりそうもないけれども、調査研究はかなり蓄積されてきている。そのなかにはもちろん、生徒のパフォーマンス(したがって学校のパフォーマンス)が向上した、多様性が促進された、desegregation 効果をもたらした、スキミングは起きていない等々の報告も少なくない、というかそういう報告は結構ある。だからF氏が、あるいはA氏が強気で責めるのもわからないではない。研究会の学校選択慎重派がこうした「証拠」に目を閉ざしているかのように振る舞っていると受け取られても仕方のないような防御に走っては火に油を注ぐようなものである。
たしかにヴァウチャーの「効果」を示唆するような相関をあちこちで見かける。最近目につき、思わず「へぇ」と言いそうになったのは、
David Campbell, "Making Democratic Education Work," in Peterson and Campbell, eds., Charters, Vouchers and Public Education, (2001)を嚆矢とする「学校選択は市民的価値形成に効果あり」とする調査結果である。
Campbell の調査を含む20本の調査研究を総覧している
Patrick J. Wolf, "School Choice and Civic Values," in Betts and Loveless, eds., Getting Choice Right (2005)によると、市民的価値とみなされる「政治的寛容」「ヴォランタリズム」「政治的知識」「社会的資本」「政治的参加」「市民的スキル」「愛国心」について、学校選択は明らかにそれらの形成に寄与している(少なくとも相関は明白である)ようにみえる。
もちろん、これらの調査報告に論及する論者は(彼/彼女が狂信的でなければ)断定は避けている。たとえば
Charles L. Glenn, "School Choice as a Question of Design", in Wolf and Macedo, eds., Educating Citizens, (2004)は学校選択を支持しつつも、次のように述べる。
いかなる調査も、学校選択が生徒たちの市民的徳に積極的な効果を不可避的に及ぼすということを、証明したことはない。あるいは証明できたわけではない。他の介入要因が多すぎるのだ。
同じく「実証とロジックに基づいて」とっいっても結論は一義的には定まらない。
かれこれ30年以上もこの問題に取り組んでいる教育経済学者 H. M. Levin が Clive R. Belfield との共著
Privatizing Educational Choice, (2005)のなかで述べているように、
証拠となる明白な基礎はとても完璧とは言い難い。
それにかんして現時点でわれわれが引き出すことのできる結論は以下のようなものに限られる。
(1) 市場アプローチは選択をかなり増進させる。
(2) 競争と選択は、学業達成の小さな改善と関連しているけれども、その提唱者たちによって唱えられているような革命的な変化に近いといえるほどのものではない。
(3) いくつかの証拠の示すところによれば、普遍的な市場アプローチは不平等の拡大へと至るであろうが、しかし、貧困層に限定された制限的な市場アプローチは逆のインパクトをもちうる。
(4) 教育的市場が社会的凝集性に及ぼす効果はわからないし、そうした効果は、社会的凝集性がどのように定義され測定されるのか、市場の拡張のなかでいかなるタイプの学校が出現することになるのかに大きく左右される。
Levin によれば、ヴァウチャーに関する包括的な証拠を集めることが困難であるのには理由がある。
(1) 経験不足。
まだ新しいし、導入も部分的。
現にある証拠の大部分は教育競争の他の形態にかんするものであったり、外国の事例からのものであったり。
教育的市場の適用例といっても、スケールにおいて相対的に小さいし、より拡張的な適用へと一般化するのは難しい。
(2) ニワトリとタマゴのディレンマ。
それが優れているというもっと確固とした説得的な証拠が存在せず、複数の目標間のトレード・オフが複雑に入り組んでいるので、より拡張した市場的実証に着手することが難しい。
伝統的な学校組織からの劇的な離脱を奨励するには、そのオルタナティヴが実証可能的に優れているということを示す必要があるのだけれども。
(3) 変数が多すぎる。[ 財政/規整/援助 ] [ 選択の自由/生産効率/衡平/社会的凝集 ]
現実には、得られる証拠は教育ヴァウチャーあるいはその他の形態の教育的市場の特定の適用に限定されざるをえず、また既存の変数は限定されているのでそこから拡張的一般化を引き出すことはできない。
(4) 評価がたいへん。
教育へのほどほどの介入にかんして調査研究するということと、システム・ワイドな変化を評価するということとはまったく別物。
というわけで、経験的証拠は依拠するにははなはだ心許なく、これで大丈夫だという証拠が揃うのを待っててもしょうがない。
じゃぁなんでみんな学校選択に賛成だ反対だってそんなに自信ありげに言えるのか?
推進会議のメンバーが強気なのは自らかき集めてきた「経験的証拠」があるからだ。
他方、会議では劣勢(サンドバッグ状態)だったが、学校選択反対派に有利な「経験的証拠」も難なく見つかる。 どうしてそれを持ち出して反撃しないのか理解に苦しむ。
失礼ながら、これは文科省さんを御批判しているのではないのだが、その程度のことで学者だと言っている人を相手にしなければならない貴省のお立場は大変同情いたします。・・・ 頼りない人たちだとは思いますけれども、樋口審議官に指導していただいて、少しは実のある議論をしなさいと言っていただけませんでしょうか。
(
規制改革・民間開放推進会議 重点事項推進WG(第7回教育SW)議事概要)
こんな無礼な輩はまともに相手にするに値しないとでも思ったのだろうか? でもそれは事前にわかっていたことで、如何様にでも準備はできたはずなのだが。
話を戻すと、要するに、両陣営にはそれぞれ自らの言い分を支持する「証拠」がある。
なんならすでにおこなわれているようだが、「意識調査」を実施してたんなる証拠以上のものを入手することもできよう。両陣営のそれぞれを支持する二様の世論が「発見」されることだろう。
ところで、上に紹介した Levin の注文(仮に注文だとして)はいかにも厳しすぎる。のみならず、それをレトリカルな意味でなく(ベタに)求めているとしたらどこかおかしい感じがする。
だからひょっとしたら Levin はそんなことなど意図してはいないのかもしれない。
より広範な教育の privatization の諸結果がなにをもたらすかを大いなる自信をもって語ることは経験的な調査研究によっては不可能だとするなら、提唱者たちと中傷者たちはそうした政策の弁護や攻撃にどうしてそんなに熱を上げられるのだろうか? 諸帰結にかんするさまざまな証拠をはるかに越え出て自らの足場を決定するものは privatization にかんするイデオロギー的なアピールである、とわれわれは考える。
とするならば、仮に、そんなことはありそうもないが、経験的な調査研究がそれを可能にしたら有無を言わさず勝負はつく、と Levin は考えているのだろうか。
だが、彼が指摘しているように、その背後にイデオロギー的な対立が横たわっているとするならば、この問いに直ちに答えるのは難しい。
この日の研究会?の模様を Levin が知ったらさもありなんと感想をもらすのだろうか、それとも情けないと...
ここで「証拠を基礎づけ、正当化する営みはどこかで終わる。・・・ 理由の連鎖の終わるところに説得がくる」(誰の言葉?)などとかっこつけていても始まらないので、バウチャーについては近いうちにもう少しきちんと考えてみることにする。
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