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2007-01-22

公共性:inside out and outside in
毎年毎年厚みを増していくセンター試験の監督マニュアルは人間の被統制可能性の極限を見極めるための実験仕様書である。めざすは完全無欠のコントロール。この限りなく全制的な環境のもとでさえ頭の中では勝手に妄想が駆けめぐる。以下、それを再現することから始めるとしよう。

最初に浮かんだのは、監督者集合の直前まで読んでいたアルチュセール『再生産について』の一節。
国家は「<法>のかなた」にある。つまり、支配階級の国家としての国家は、公的でも私的でもなく、逆に公私のあらゆる区別の条件なのである。
この一節に行き当たったとき思わず膝を打ちそうになったのだが、それについては後述。 自然な流れでいわゆる「公共性」についてあれこれ湧いてくる。

間宮陽介が都市論のどこかで書いていた「公」と「私」が幾重にも入れ子状になったようなイメージ、そういえばそういうのもあったなぁ。
それでそのあと創刊されたばかりの平凡社新書で加藤典洋を読んだとき同じようなことが書いてあり、こちらは田原嗣郎(であってる?)という(歴史)社会学者の研究からひねり出されていたっけ。
それだけでなく、二人とも、その入れ子の一番内奥、たまねぎの芯には「私」があるとみなしているところなんかも一緒だったなぁ。
んでもって、比較的最近、この二人に論及している公共性論があったような記憶。

と、ここまで数十秒。ハッと我に返る。あとで部屋に帰って調べてみることにして、おしごとに励む。一兵卒に徹するのであった。

件の文献はすぐに見つかった。『新しい公共性』(有斐閣 2003)の巻頭山口定論文「新しい公共性を求めて」。
ここで山口は「公と私を結びつけるものとしての公共性」という「「公共性」概念の再発見」の例として二人を挙げている(間宮については丸山眞男論が典拠とされているが)。そのことを踏まえたうえで次のような問題を提起している。
一つは、わが国の「公共性」論者たちの多くが、いわゆる公・私二元論を明確かつ完全には卒業しておらず、したがって、「公」と「私」を媒介したり、「結びつけるもの」という私的にとどまって、それが独自の理念・主体・規準・手続きをもった、「私」でもなく「公」でもない独自の「空間」とその特性であるということを明晰に提示していないことである。/第二には・・・
その先の議論における山口の問題意識のポイントは次の一節に端的に示されている。
わが国の場合のように、「公共性」という訳語を「公共空間」と区別せずに押し出すと、本来区別されるべき両者が混同され、ひいては「正当性基準としての公共性」の問題の解明がなおざりにされかねないのではないか
この問題意識は頷けるものである。口幅ったいがかつて次のように書いたことがある。
そこで、とりあえず、教育の公共性を次のような意味で用いることにする。すなわち、教育にかかわる公私の力の行使を統御する制度的枠組を正当化あるいは批判するさいに訴えることのできる規準である、と。もちろん、この定義によって問題の教育の公共性が解明されているわけではない。教育の公共性をめぐる理論の在り処を示唆したにすぎない。つまり、様々に意見を異にする人々から成る現代社会のなかで、教育が個人個人では営まれえず、何らかの仕方で組織されざるをえないという現状において、そうした組織された教育という課題状況が含む個々のあらゆる事態にたいして、「そういう場合はこうでなければならない」という必然的関係を見定めるのが、この理論の課題ということになる。(「教育の公共性」 in 田子健編『人間科学としての教育学』勁草書房, 1992)
「とりあえず」はこれが作業仮説であることを示しており、「つまり」以下の部分が解明されるべき問いである。もちろんこの作業仮説だけでは解けないし、実際に解けはしなかったのだけれど。 ともあれ、この論文にかんする後にも先にも唯一のコメント「論じられているのは公準であって公共性ではありませんね」(当時大学院生のM氏)はそういう意味で正確に的を射抜いていた。

一般的ではない上記の定義は自覚してやった。 そのきっかけは二つ。いずれもちょうどまとめ終わった学位論文の研究作業中にうすうす気づいていたことである。

ひとつは、19世紀後半のドイツ語文献を読み(今はもう読めませんが)、それを日本語に移すときに、Offentlichkeit の扱いに当初苦慮し、結局「公共態(体)」と「公共性」という二つを適宜あてることにした。あえて形式的に分ければ、どちらかというと主語的に登場するときには前者、術語的にあらわれるときには後者というふうに訳し分けた。
わが国のハバーマス読みにおける Offentlichkeit → public space → 「公共空間」という移し換えのプロセスでこぼれ落ちたニュアンスを明示すること。

もうひとつは、分析過程で明らかになったことにかかわっている(『授業料の解像力』東京大学出版会 1993, 119-120)。
すなわち、手数料論における二つの経済主体である「公」と個別的「私」は、たしかに、必要充足と価値評価という二つの局面において対等なものとして扱われている。しかしながら、教育という「類的価値」に着目した場合には、「公」は「価値評価」を遂行する「悟性的判断者」、「私」は必要を充足される「平均的人間像」の総体としての「国民」としてとらえられることになる。つまり、「公」と「私」とは、社会的空間の領域区分ならびにインタレストおよび費用負担の帰属区分をあわらす対概念であると同時に、ここでは判断能力の有無をも指し示している。
結果的に成立した無償教育システムは、共同精神の具現者たる「公共体」=国家を「悟性的判断者」として指名し、人間たることにおいて平等な個人を「平均的人間像」として措定することによって、実際には、教育の私的性格を保存したままで、それを国家のもとに包摂する過程を進行させることになるのである。
以上の考察から、無償教育の教育認識の問題は、「平均的人間像」として想定されている諸個人間の同質性と異質性をどうとらえるか、「悟性的判断者」の資格能力をどうとらえるか、という点にかかってくる。これは、教育とは何かを認識したうえで、教育はどうあるべきかを展望し、そのような教育を組織化するためにはいかなる制度が構想されうるか、という問題をあらためて提起する。
ほかならぬその「教育」から誰が利益をどれだけ得るのか、その「教育」を維持するのに誰がどれだけ費用を負担すべきなのか、という枠組のなかにプレーヤーとして「公」と「私」が登場している。 だが、プレーヤーだけではゲームは始まらない。レフェリー(ルールを体現し執行するもの)が要る。それが「悟性的判断者」であり、「公共体」とも呼ばれる。
平たく言ってしまえば、受け取る利益に比例して費用を負担するという他愛もないことなのだが、利益が一義的に明確でなく、その大きさも十分に正確には測定できないとなると、区分は自然には決まってこない。水から湯と氷を作るようなもので、そんなことマクスウェルのデーモンじゃなきゃできません。 ということで、多かれ少なかれ恣意的であらざるをえない。それはサッカーで「手でボールを扱ってはならない」というルールが恣意的であるのと類推的である。
上の例では、「国家」が二度(一度目はプレーヤとして、二度目はレフェリーとして)登場してきているわけだが、資格が異なっているということはあらためて言うまでもないだろう。 後者のケースでは、「国家は「<法>のかなた」にある」。

かかる整理を下敷きにすると、山口のいう「公共性」の内実は「公共体」の「悟性的判断」を指しているといえようか。
「公共性」を「公共空間」と区別する山口がめざす「公共」論は「「公衆」もしくは「市民」、「公共空間」並びに「公共性」の三つをキーワード」として展開されるとのこと。
レフェリーに「市民」が指名されようとしているのは明らかである。 「市民」が「公共性」の担い手であり、推測するに、その実体は civitas またの名はアソシエーションであり、この圏域が「公共空間」というところか。

ところで、「重層的アイデンティティの時代」には「それぞれの集合的アイデンティティのレベルや特性ごとに異なった「公共性」の空間が存在することになろう」と山口は言う。
不明な点がある。以下に書く二つの疑問は結局はつながっているのだが

まず第一に、「市民」ははたして「プレーヤー」でもあるのかという点である。 「集合的アイデンティティ」が「市民性」にとっての条件であるとしてもそれはいかなる条件なのか。 こんなことは山口の意図にはないだろうが、「われわれ」と言った途端にそこに「公共空間」が出現してしまったら、あまりにも無限定である。

第二は「集合的アイデンティティ」の帰属先として「国家」は想定されているのかという点である。想定されているとするならば、「国家」はさまざまに交錯する数々の重層的な「公共空間」の大きいけれどもその一つであるとみなしてよいのか。
もはやかつてほど包括ではないかもしれないが、依然として「国家」は一種のメタ空間、大文字の Civitas として存続し続けるのではなかろうか。
山口が指摘しているように、「多元的かつ重層的な集合的アイデンティティのさまざまなレベル間、種類間の相克という問題が避けられない」だろう。とするならば、それらの問題はどこかで処理されなければならない。
そして「市民的公共性」の理念を手放したくないとするならば、どんな種類のアイデンティティがどんな条件のもとで持続可能なのかという問いに答えを出すのは、必ずしも fellow ではない citizen たちしかいない。

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