絶賛放置中のところ、
『論座』1月号に載った赤木智弘「『丸山眞男』をひっぱたきたい」とそれめぐるやりとり=ディスコミュニケーション(同誌、4月号、6月号)を読んで思い出したものがあったので、とりあえずメモっておく。
それだけ。
Avishai Margalit, The Decent Society, trans. by Naomi Goldblum, HUP, 1996 の
Introduction から抜粋。
[前略]
正義に適っている社会はどれもみなディーセントな社会であるにちがいない。だがその逆は必ずしも真ならず。
[中略]
私は、ディーセントな社会を非屈辱的 nonhumiliating な社会として大まかに特徴づけるところから始めた。
ディーセントな社会を、たとえばその成員に敬意を払う社会といった具合にポジティブに特徴づけないで、非屈辱的というかたちでネガティブに特徴づける理由はなにか?
それには三つの理由がある。
道徳的理由、論理的理由、そして認知的理由である。
道徳的理由は、害悪 evil を根絶することと善 good を促進することとの間には重大な非対称が存在する、という私の確信に由来している。
享受可能な便益を創出することよりも、苦痛を伴う害悪を除去することのほうがはるかに緊急を要する。
屈辱は苦痛を伴う害悪であるのにたいして、敬意は便益である。
それゆえ、敬意を払うよりも屈辱を除去することのほうが優先されるべきである。
論理的理由は、直接的に・理知的に達成される諸目標と、本質的に副産物であり、直接には達成されえない諸目標との区別に基礎を置いている。
たとえば、自発的でありたいと欲する人々が、自発的であろうと決意することによって直接的に自発的になるなどということはありえない。
彼女/彼らが為しうることのほとんどは、自発的に行為しているというフリである。
自発性は、一次的な目標というよりは二次的な副産物なのである。
人々に敬意を払うこともまた、本質的には、人々にたいする一般的振る舞いの副産物でありえようが、非屈辱にはこのことは当てはまらない。
ひょっとしたら、敬意を示していると確かに認めることのできるような振る舞いはひとつも存在しないかもしれない(たとえば敬礼のような軍事的敬意を示すものであると確かに認めることのできる個別具体的な行為が存在しないという意味においてである)。
ひょっとしたら、われわれは、他の目的のために意図された行為をとおして敬意を示しているだけであって、したがって、示された敬意は副産物にすぎないのかもしれない。
対照的に、他の行為の副産物ではない侮辱的な個別具体的な行為は存在する。たとえば、誰かの顔に唾を吐く。
三番目の認知的理由は、健康と確認するよりも病気と確認することのほうが容易であるのとちょうど同じように、敬意を払っている振る舞いであると確認するよりも、屈序を与えている振る舞いであると確認することのほうが容易である、というものである。
健康と栄誉はいずれも防御を内に含んだ概念である。
われわれは栄誉を護り、健康を守る。
疾病や屈辱は攻撃を内に含んだ概念である。
それと確認するのは攻撃状況のほうが防御状況よりも容易である。
というのは、前者が攻撃する側と攻撃され去る側との間の明瞭なコントラストに基礎を置いているのに対して、後者は攻撃者が定かでない場合であっても存在しうるからである。
[後略]