日本学術会議のイベント(2007年3月12日)で斯界の大御所佐藤学会員が「教職の危機」を力説している。昨年の日本教育学会大会(2006年8月)の「特別課題研究報告」(『教育学研究』74巻1号, 74-77)でも同じテーマが扱われているが、比べ読むと、後者にかいま見える○○的配慮?が削ぎ落とされている分、その主張がストレートに表明されているという印象である。
議論そのものはよく整理されておりわかりやすい。以下、
「基調講演(要旨)」として公開されている文書を参照する。
かつて「日本の教師の優秀性を支えた基盤」
- 「高い教養と専門知識」
- 「教師の高い給与と教員採用における高い競争率」
- 「インフォーマルな専門家文化」
- 「教師自身の公共的使命の自覚の高さと教師に対する信頼と尊敬の高さ」
がすべて崩壊している。
- 「科学的教養においても教職専門の教養においても OECD 諸国の中で最低のランク」
- 教師の待遇の相対的低下、採用競争率の低下
- 「インフォーマルな専門家文化の低下」
- 「メディアや世論による『教師バッシング』」
こうした一連の危機を氏は「教職の高度化と専門職化の失敗」と位置づける。
そのうえで、「戦後の教師教育の二つの基本原理である『開放制』と『免許状主義』」を「失敗」の「ベース」と同定している。
結論的に言えば、『開放制』と『免許状主義』によって、戦後日本の教師教育は、教員養成系の大学(学部)においても、一般大学の『教職課程』 (option?) においても、まっとうな教師教育が行われず、専門家教育としての教師教育も不十分にしか行ってこなかった。その構造的な問題の解決が求められている。
提案されているのは、「『ヨーロッパ』型と『アメリカ型』の二つのモデルを併存し、それぞれを洗練させて教職の高度化と専門職化を推進する」ことである。佐藤版教職大学院構想。
おお鉄壁。しかしながら、議論の筋が通っているということは、正当化の必要条件ではあるが、まだ十分ではない。
以下、半ば第三者的、半ば役割(私大教職課程教員)行動的に私見を述べてみる。行間から推測される背後仮説が主な検討材料となる。なお、予め断っておくが、私は「開放制」や「免許状主義」に拘泥しない。これを錦の御旗に掲げる面々が未だに多いことには閉口している。
教員養成制度はかつては発展的な構造を持ちえていた。それは「学士様」しか免許状を持ちえなかったからだ。教師とそれ以外の人々=非教員との間に存在した「落差」がその構造を支えていた。もちろん一面的な単純化ではあるのだけれど、この要素は無視できないだろう。
上の佐藤の構想は、大学の大衆化により埋まった「落差」を再び創り出すという効果をもつ。その意味では、既存の枠組みを壊そうとしているかに見えて、実はそうではない可能性がある。いずれにおいても、啓蒙家としての教師が期待されているようだから。
ひょっとしたら、そうすることによって問題を「解決」=「危機」を回避することができるかもしれない。とはいえ、専門家イコール啓蒙家ではまさかなかろう。
さらに、「これでは、知識が高度化し複合化し流動する知識社会に対応できないし、複雑化する子どもの現実にも対応できない」という主張の背景には、教職の危機を教育/社会の危機の原因とみなすような因果観があるようにも思われる。教職を高度化・専門職化することによる問題解決。
だが、逆の因果も考えられよう。非教員も含めて人々の学歴は全体的に上がったが、その「高度化」した教育によって得られた「教養」に問題があり、それが「開放制」「免許状主義」と相まって、「教職の危機」を演出している、と。
短大卒の有能な(わが子を託したいと思うようなというほどの意味)若い教師を幾人か見知っているが、それは恐らく彼女ら自身の「資質」と彼女たちがともかくも獲得してきた「教養」との絶妙な配合に因るのだろう。そうとしか考えられない。
たしかに、これは確率の問題ではある。だが、「教職の高度化・専門職化」によって絞り込まれた人々による問題解決と、大学を含めた教育によって得られる非教員を含めた人々の「教養」の質による問題解決と、両者の確率は比較してみるに値するのでは、と思うのだが。。。
われわれは退行局面における選択に直面している。既存の制度がかつては有効であっただけに、その選択は難しい。ゆえに、選択肢については、これを広めにとっておくに如くはなかろう。
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