2007-07-21
「キャリア教育」と「教育」のあいだ
児美川孝一郎『権利としてのキャリア教育』(明石書店)を読んだ。そこに書かれている個々の記述(第4章まで)は、私が講義で学生たちに半ば試行錯誤的に喋っていることと重なるところが少なくなく、その意味では安堵感を与えてくれたりもするのだが、しかし、著者がおそらく一番言いたいこと(第5章)については、私は少し違った考えをもっている。
著者の最終的な主張は、第5章のタイトル「『権利としてのキャリア教育』の創造へ」に集約されている。
「権利としてのキャリア教育」の導出論理はお馴染みのものである。
すなわち、この教育は、「キャリア権」(憲法13条:幸福追求権、22条:職業選択の自由、27条:勤労権 から構成される法理としての憲法的権利)を実質化する必要条件である、とされる。著者自身が述べているように、この論脈が、学習権を「人権中の人権」と位置づけるという例の教育法学説を援用したものであることは言うまでもない。
だから、基本的には、「キャリア教育」は、「教育」を語る語り口でこれを語ることができる。
実際、「学校教育が、学校教育としての本来の役割を十分に果たしているのであれば、とりたてて『キャリア教育』などという概念や視点を持ち出す必要はないのかもしれない」と著者は言う(第2章)。が、そのうえで、「実際にそうなっているのか」と問い、否と応じ、本書が書かれている。
本書に即して言えば、今日的状況が普遍的権利としてのキャリア教育の発見を促し、その「創造」を求めているというところか。
さて、私が引っかかるのは、この導出論理それ自体というよりは、むしろ、その結果、キャリア教育が「教育」として語られてしまうという点であり、懸念するのは、そうされることにより巷間流布されているキャリア教育の潜勢力が馴致されてしまうのではないかという点である。
キャリア教育のハウツーもの(指導案やマニュアルの類)はすでに多く出回りつつある。それらを見ていて気づくのは、「何のために学ぶのか」といった趣旨のテーマがそこここに登場してきているということである。毎日学校に行って勉強するのは当たり前という前提が外される。これはすでに、リフレクシブな、あるいはメタレベルの学習を求めている。
もちろん、教える側の選択前提も外される。原則として、すべての教育行為に正当性証明が課される。これはつらい。負荷が大きすぎる。
政策文書や本書の著者が述べているように、キャリア教育が、「学校の教育活動の現状を再点検する視点であり、学校改革の視点でもある」(第2章)とされるのは、こういう事情によっているわけなのだが、そのことがどの程度本気で考え抜かれたうえでの提案なのか正直なところはかりかねている。
しかもこのタスクは進学や就職といった現実と付き合わせたうえで遂行されなければならないのだ。
これは学校教育に教育社会学と教育哲学を鮮度を落とさず持ち込むことに等しく、ある意味でそれは血の滴るような教育破壊的教育である。
もっとも、それを「教育」にしてしまうという手はある。そうすれば血を流さなくても済むだろうけれど。
選択前提を外して考え行動することができる(とても重要)が、場合によってはそれが維持されているかのように振る舞うこともできる、言い換えれば、ホンネとタテマエをうまく(ここが難しい)使い分け、どちらにも一本化しない、かつ、相互に相手も同様であるということを承認しつつコミュニケーションを遂行する、これが最適解?