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2008-03-05福沢諭吉の教育論と二つの近代:
こんなことばっかりやっててもしょーがないんだけど・・・
文科省申請用の業績(至急:科目「教育史I」)の下拵え
1. 課題設定
 『福沢諭吉教育論集』(岩波文庫、1991年)を編んだ山住正己は、巻末の解説のなかで、「『時事新報』刊行(1882年)前後」を「画期」として、福沢の教育論、とりわけ「人間の発達する可能性についての考え」が「変化したといえるのではないか」と述べている。すなわち、それ以前の時期には、「『学問のすすめ』初編にもっともはっきり示されているように、人間は学ぶことによってその可能性を開花させることができると高らかにうたいあげていた」のに対して、以後の時期にあっては、「遺伝によって人々の能力が規定されていることを強調するようになった」(山住: 318-319)。もっともその「変化」をうかがうことのできるような福沢の著述はなぜか『論集』には一編も収録されておらず、これはこれで史実を選択的に記述するという歴史家の作業に隠された巧まざる意図への想像力をいたく刺激するのではあるけれども、本稿はそうした邪推を展開しようというわけではない。
 たしかに、言われるような「変化」があるようにもみえる。異なる二つの主張が認められ、それらが時間軸に沿って継起しているようにみえる。しかしながら、それを「変化」と呼ぶためには、両者が同じ次元に属しているということが前提となる。もしも、別々の次元に属しているならば、それをあえて「変化」とみなす必要はなかろう。以下において、本稿は、「学問のすすめ」の高唱と「遺伝決定論」への傾斜とが別々の次元に属していた、言い換えれば両者は併存していた、ということは併存を可能にする高次の枠組みが存在していたとみなすこともできるのではないか、こうした一連の事態の背景には福沢が接した西欧近代の時代特性が横たわっていたのではないかという仮説を提示する。

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2. 『学問のすすめ』― デ・ジュレとデ・ファクト
 『学問のすすめ』初編(1872年。1876年に全17編が完結した後1880年に合本。初編のみ小幡篤次郎と共著)の冒頭の一節、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」(11)は、伝聞調であり、アメリカ独立宣言を念頭に置いたものであろうと推測されている。つまり、近代の開始を告げる人権宣言、権利の平等の宣言である。「人は同等なること」を表題に掲げた「『学問のすすめ』二編(1873年)がこの真意を敷衍する。「同等とは有様の等しきを言うに非ず、権理通義の等しきを言うなり」(21)。ここにおいて、「有様」(デ・ファクト)と「権理通義」(デ・ジュレ)との区別は重要である。「有様」のほうは「固より同じかるべからず」。したがって、その規範的意味は、「有様の不同なるが故にとて他の権理」を「人力をもって・・・害すべからず」という点にある(22)。
 以上を踏まえたうえで、初編における先の記述に後続する学問奨励の部分
されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第甚だ明らかなり。・・・その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとに由ってその相違も出来たるのみにて、天に定めたる約束にあらず。諺に云わく、天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなりと。されば前にも言える通り、人は生れながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。(11-12)
を読むと、そこに書かれているのは、来たるべき社会において「有様」(「貴賎貧富」)を決めるのは「人の働き」=学問の有無であるという、今日の言葉で言えば、階層構成原理(資源分配原理)であること、教育が分配装置となるということであることがわかる。ただし、引用の最後の文は、「学問さえすれば富貴になれる」というふうにも読める。しかしながら、学問は必要条件ではあるとしても、それが必要十分条件であるとまで福沢が主張しているのかどうかは疑問である。なぜなら、福沢にあって、「有様」は「固より同じかるべからず」であるからである。とはいえ、誤解を生みかねない記述ではある。このことについては後述する。
 いずれにせよ、等しくあるべきは「権理通義」であり、その「大義」は「その命を重んじ、その身代所持の者を守り、その面目名誉を大切にする」(22)ところにこそある、というのが福沢の中心的主張である。したがって、こうした状態が実現されていれば、デ・ファクトとしての「有様」の不同は問われない、と解するのが比較的無理のない解釈であろうと考える。
 ところで、これまで述べてきたかぎりでは、同じであるはずもなく同じにすることもできない「有様」はもっぱら分配の結果として描かれている。が、必ずしも結果ではない「不同の有様」に言及している箇所も認められる。二編には「地頭と百姓」の「有様」の違いと並んで、力士と普通人との腕力の違いが例示されている。後者もまたデ・ファクトではあるが、それは社会的過程の結果として与えられるものではない。分配装置を真ん中に置けば、前者は出口、後者は入り口に位置する。いうまでもなく、入り口におけるこのいわば自然的な差異の承認は分配装置としての教育構想に独自の難題を突きつけることになる。

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3. 「教育の力」― 限界と可能性
 1875年か1876年、まだ『学問のすすめ』刊行中の時期に著したとされる「教育の力」という草稿のなかで、福沢は遺伝と教育の関係について論じている。
 遺伝に言及することによって福沢はまず教育万能論を排する。「精神の力は無形にして」見定めにくいために、「ややもすれば教育を見るに重きに過ぎ、『人学べば智なり、学ばざれば愚なり』とて、智慧は唯教育の如何に存することと信じて、恰も人力を以て智者を製作せんと欲するものなきにあらず」。だが、これは「大なる間違」である。なぜなら、「人の能力には天賦遺伝の際限」があり、その点では「人生も牛馬と異なら」ないからである(20: 154)。
 では教育は徒労か? これも「大なる間違」だと福沢は言う。彼は、自然のままに放置すれば枯れてしまう庭木を見事に育て上げる植木屋の仕事と教育を重ね合わせる。すなわち、「苟も其の子をして天然の持前を空しうすることなく、其の素質の全量を琢磨して光を放たしむるものは教育の功徳と云わざるべからず」(20: 155)。
 しばしば、親福沢の研究者にとっては処理に難儀する戸惑いの元凶であり、反福沢の研究者にとっては格好の攻撃の的となっている彼の遺伝−教育論は、どちらの陣営にとっても両義的であるということがわかろう。そこで主張されているのは、天賦の素質の全面開花、際限ある可能性の100パーセント現実化にほかならない。これは今日もなお看過しえない観点である。また、「教育の事大切なりと雖も、その力を重んずること其の実に過ぐるは天下の通弊」という警告は、遺伝云々の文脈を離れてもなおその意義を失わないであろう。
 もちろん、すぐ後で紹介するように、福沢がかの悪名高いフランシス・ゴールトンの遺伝決定論を賛美しているからには、後世の歴史家にも言い分はあろうが、それについては、これを福沢の限界とみるよりは(あるいはそうすることと並んで)、これも後述するが、彼の時代の西欧が経験しつつあった新たな世界像の出現を考慮に入れるほうが有益であろう。

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4. 『時事小言』― 啓蒙と正規分布
 『時事小言』(1881年)においても、福沢は遺伝による限界説(天賦論)を唱え、教育の過大視を戒めている。そのなかで注目されるのは、「やればできる」という教育イデオロギーを「誘導の方便」と断言して、その便宜性を公言している点である。
元来教育の主義に於ては、人の天賦を平等一様のものなりと視倣して、其能力の発達は教ゆる者の巧拙と学ぶ者の勤惰如何とに在るものとして奨励することなれども、是れは所謂誘導の方便なるものにして、実際に於て人の能力は天賦に存するを常とす。・・・畢竟世の教育家が其教育奨励の方便の為に事実を公言するを憚り、遂に天賦論を抹殺して一般に之を忘れたるものなり。固より愚民多き世の中なれば、無天賦論の方便も時としては可ならんと雖も、事実を忘れて之が為に遠大の処置を誤るは憂ふ可きの大なるものと云ふ可し。(5: 224-5)
 してみれば、『学問のすすめ』初編における上述の誤解を招きかねない・多義的解釈を許す表現の意図は、この意味での啓蒙効果をねらったものであったと言うことができようか。かつて啓蒙期ヨーロッパにおいてベルリン・アカデミーが問うた問い「騙されることが人々にとって有用であるかどうか」への福沢なりの解答であった。彼は、近代初期の啓蒙家としての役回りを忠実に演じたといえよう。
 知られているように、福沢は、フランシス・ゴールトンを信奉していた。書きぶりからもその心酔ぶりがうかがわれ、後のゴールトン評価を知る者はそのナイーブさに驚くばかりである。さらに杜撰ともいえる拡大解釈もどうかと思う。
武人の子は武を好み、文人の子は文を好む。商人の家に生まるる者は利にさとり、学者の家に生まるる者は学事にさとる。彼の俳優または碁将棋の師家と称する者が血統の世々にその芸を伝うるといい、また封建の時代に儒者医師などに家を限りたるも、無稽の法の如くなれども、自ずから遺伝するところのものありて、事実他家の子孫に異なるところあることならん。(「遺伝之能力」1882年、8: 57)
 しかしながら、福沢の遺伝理解がいかに不用意なものでり、その適用が短兵急であったとしても、人々の能力の自然的差異を棄却してしまわない限り、こうした欠点は前節で述べた自然的差異と教育をめぐる福沢の見解を覆すものではない。
 そのことを押さえたうえで、ここでもう一点触れておきたいのは、ゴールトンのオリジナリティ(優生学を創始者したなど)ではなく、彼が同時代の人々と共有していた新しいアプローチのほうである。たとえば、福沢も紹介している全人口の能力の程度は正規分布を示すという知見などがそうである。
至智と至愚とを上下の両極に置て、上より次第に下り、下より次第に上れば、次第に其数を増して、智愚両間の中段に位する者最も多し。而して其智者の数も愚者の数も正しく同様なる・・・(5: 225-6)

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5. 二つの近代 ― 理性と統計
 われわれにとってはお馴染みのこの世界像は、18世紀末から20世紀初めにかけて起こったもう一つの科学革命=「確率革命」によってもたらされたものである。周知のように、近代の科学革命は、「理性による因果関係の把握と自由意思による外的世界への介入」という「近代的な認識=行為連関」(中山竜一「リスクと法」『リスク学入門1』岩波書店、2007年、91)をもたらし、近代市民革命を準備したといわれている。それにたいして、「確率革命」はそうした「近代的な認識論的枠組の上に積み重なるように、統計データと確率に基づく新たな世界像、新たな認識=行為連関(を)出現」させ、「福祉国家の土台」を提供することになった(中山 99-100)。正規分布についていえば、この曲線を「誤差の法則というよりは、真のバリエーションの法則であるとする解釈変更は、19世紀統計思想の中心的な成果であった」(T. M. ポーター『統計学と社会認識』梓出版社、1995年、109)。
 福沢とその時代の日本はいわば二つの近代に同時に出合ったということができよう。彼は、近代市民革命と確率革命に、人間の平等についての規範的な原理と、自然界と人間界のデ・ファクトな偏差(多様性)を処理する文法に出会ったのである。のみならず、それを導入し定着させようとさえした。デ・ジュレにおける平等化要請と、デ・ファクトな社会的および自然的な差異の承認、これらを一挙に実現する具体的方途に思いを致してみればその困難は容易に理解されよう。加えて、その後の議論の成果を踏まえて、遺伝の関連を承認するとしてもその影響に不確実性を認め、さらに正規分布曲線に被構築性を認めるならば、困難の度合いは格段に高まる。
 福沢諭吉評価をめぐる論戦を別にすれば、彼の教育論それ自体の検討に関しては、すでに手垢がつきすぎて新たな研究がなかなか出てこないという状況が続いているように見える。それにたいして、本稿はまだまだ資源としての利用価値があるのではないかということについて述べた。贔屓の引き倒しでも坊主憎けりゃ袈裟まで憎いでもなく。

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[付記]
  1. 福沢のテキストは、『学問のすすめ』は岩波文庫版に拠り(頁)を、その他は岩波書店版『福澤諭吉全集』に拠り(巻: 頁)を記す。表記を現代風に改めたところがある。
  2. 規範的な平等要請と経験的な差異の事実との調停問題に取り組んだ先駆者としてコンドルセを挙げることができる(参照、田原宏人「コンドルセ 1770年代 ― 公教育論以前 ― 」1992年, 森田尚人ほか編『教育研究の現在 教育学年報1』世織書房、所収。同「不平等を馴らす ― コンドルセの場合 ― 」1995年, 『フランス教育学会紀要』第7号、所収)。彼が確率を扱う数学者であり、確率論を社会的事象に適用しようとしていたことと関連があるのかもしれない。なお、したがって、コンドルセにかんする市野川容孝の次の叙述、「『諸君が自然から才能を賦与されていれば』とコンドルセは言う.だが,『自然』が賦与す『才能』そのものに不平等があるとしたら?― コンドルセの教育論は,この問いの前に立ちすく(む)」(『思考のフロンティア 社会』岩波書店、2006年、146)はミス・リーディングである。
  3. ベルリン・アカデミーの出題に対するコンドルセの解答は次のようなものであった。「権力を奪取する方途を公表すれば、かえって敵を利し、人々に損害を与えかねない。もし真理を語ったとして、それらの真理が大多数の人々に受けいれられるようになる前に、それらが役に立つことを期待することができない場合、また、それら真理が人々を怯えさせる場合にも、真理を語ることは危険であろう。ゆえに、大切なのは、真理を虜れの身にしておき、それを誤謬で置き換えることのないようにしておくことだ。そしてこの場合、人類の守護者は、圧制者たちに対抗して、一人の将軍であらねばならないが、ただし自らの戦闘計画を公表してはならない。」
  4. 確率革命において重要な役割を演じた人物の一人にベルギーの統計学者アドルフ・ケトレーがいる。誤差法則(ガウス分布/正規曲線)が人間の多様性を支配しているということを「発見」したのは彼である。彼は平均値のまわりの変動よりも中心それ自体に着目し、それをスタンダードとみなし「平均人」と名付けた。これを一世紀前の啓蒙期の議論と比べてみれば、「啓蒙人が確率論的期待値の確定と比較とにおいて組織立てられた合理的な確信と行動との諸規準の反例となっていたのにたいして、平均人は偶然的で移ろいやすい諸個人の行為に対置されるものとして、正規曲線によって明らかにされた均一で恒常的な社会法則を人格化したものであった」(S. M. Stigler, The History of Statistics: The Measurement of Uncertainty before 1900, Cambridge Mass, 1986, 172)。ゴールトンは、ケトレーが誤差として把握した人間の多様性(バラツキ)それ自体に関心をシフトさせたのである。(これらの論点につき、参照、田原「不自然な偏差値」1994年, 森田尚人ほか編『教育のなかの政治 教育学年報3』世織書房、所収。)

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