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2008-06-11「キャリア教育」と「教育」のあいだ:
こんなことばっかりやっててもしょーがないんだけど・・・
文科省申請用の業績(至急:科目「進路指導論」)の下拵え
旧記事: の焼き直し
 いわゆる「失われた10年」の後半期、新規学卒者の就職難、若年失業率の上昇、フリーター指向等が社会問題として急速に浮上した。これらに対処すべく文部科学省の委嘱を受けた「高校生の就職問題に関する検討会議」が2001年に取りまとめた報告書は、「学校での指導が生徒の進路意識の形成に大きな影響を及ぼすに至っていない・・・。学校教育にあっては、このことを重く受け止め、指導・援助の在り方を厳しく見直すことが必要であろう」と、学校における従来の進路指導を厳しく指弾した。そして、それと相前後するように「キャリア教育」という言葉が教育界で頻繁に耳にされるようになる(文部科学省の政策文書における初出は1999年の中央教育審議会答申)。その後、キャリア教育への関心は急速に広がりを見せ、小泉内閣の「若者自立・挑戦プラン」は「骨太方針2004」に取り込まれ、安倍内閣「キャリア教育等推進プラン」(2007年)へと引き継がれる。こうしてキャリア教育は文字通り国策となり今日に至っている。
 こうした動向を指して「進路指導からキャリア教育へ」というキャッチ・コピーが其処彼処に出回っている。しかしながら、このコピーはいささかミスリーディングである。というのも、キャリア教育はもはや、いわゆる教科外指導の一分野として位置づけられることが想定されているものではないからである。たとえば、キャリア教育概念の検討に時間を費やした「キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議」は2004年に文部科学大臣に提出した報告書のなかで、「キャリア教育の視点から従来の教育の在り方を見直し、各学校での教育課程の改善を促す」と述べている。すなわち、キャリア教育は、少なくとも政策意図としては、学校の教育活動全体を俯瞰し統御する役割を担うことが期待されているのである。

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 キャリア教育を扱った書籍は激増しているが、そのなかでも児美川孝一郎『権利としてのキャリア教育』は、政策の解説や現場サイドでのノウハウに傾きがちな類書とは異なり、キャリア教育が今日のわが国の教育状況を変えるにさいしていかなる潜勢力をもちうるのかを独自の視角から論じている。
 第1章「子どもと若者の進路をめぐる状況」では、まず、「学校から仕事への移行の」プロセスが「長期化・複雑化・不安定化」していることが明らかにされる。このことの指摘それ自体には目新しさはないが、著者は一歩進んでそれが「おとなへの移行」の困難を伴っていることを強調する。それを目指すにしろ、乗り越えの対象にするにしろ、おとなモデルが、したがって社会的に「標準」的なライフコースもまた解体しているというわけである。そのうえで次に、子どもたちの進路意識が分析され、「今日の子どもたちの進路展望」が子どもらの「属する学力競争上のポジションによって、その現れ方は異なるとしても、全体として『閉塞』している」ことが示される。
 第2章「キャリアとは」はキャリア教育についての概説となっている。まず、わが国のキャリア教育のモデルの一つとなったアメリカの「キャリア・エデュケーション運動」が紹介され、キャリアがたんなる「ワーク・キャリア」ではなく「ライフ・キャリア」であることが確認される。次いで、そのようなキャリア概念にもとづくキャリア教育、すなわち「人生(生活と労働)における主人公になれるための力量形成」を目的とする教育は、学校教育の「本来の役割」「基本的な機能」であるということが確認される。
 第3章「日本におけるキャリア教育政策の展開」と、それに続く第4章「『政策としてのキャリア教育』の批判的検討」では、キャリア教育不在の1970年代からキャリア教育全盛の今日に至るプロセスが丁寧に跡づけられ、検討を加えられている。著者の批判のポイントは、一方で政府レベルの政策が「企業の採用行動や政府の労働力政策といった構造的要因を問わずに、若者たちの意識や意欲、能力の問題に主要な関心を集中させ」ており、他方で文部科学省もこの「構図」を事実上受けいれざるをえず、結果的に「教育政策は、今日の若年雇用問題の深刻化に対して、若者たちに意識『改革』を迫ることを通じて、“社会矛盾に教育で始末をつける”といった格好の役回りを担わざるをえなくなる」という点にある。

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 ここまで(第4章)までの個々の記述は、私が講義(進路指導論)で学生たちに半ば試行錯誤的に喋っていることと重なるところが少なくなく(もちろん全面的に同意するわけではない。たとえば、2000年代初頭と中期との間にニュアンスの変わり目を認めることも可能である。)、その意味では安堵感を与えてくれたりもするのだが、しかし、著者がおそらく一番言いたいことについては、私は少し違った考えをもっている。
 著者の最終的な主張は、巻末に配された第5章のタイトル「『権利としてのキャリア教育』の創造へ」に集約されている。そこで語られている「権利としてのキャリア教育」の導出論理はお馴染みのものである。すなわち、この教育は、「キャリア権」(憲法13条:幸福追求権、22条:職業選択の自由、27条:勤労権から構成される法理としての憲法的権利)を実質化する必要条件である、とされる。著者自身が述べているように、この論脈が、学習権を「人権中の人権」と位置づけるという周知の教育法学説を援用したものであることは言うまでもない。
 だから、基本的には、「キャリア教育」は、「教育」を語る語り口でこれを語ることができる。実際、「学校教育が、学校教育としての本来の役割を十分に果たしているのであれば、とりたてて『キャリア教育』などという概念や視点を持ち出す必要はないのかもしれない」と著者は言う(第2章)。が、そのうえで、「実際にそうなっているのか」と問い、否と応じ、本書が書かれている。本書に即して言えば、今日的状況が普遍的権利としてのキャリア教育の発見を促し、その「創造」を求めているというところか。
 さて、私が引っかかるのは、この導出論理それ自体というよりは、むしろ、その結果、キャリア教育が「教育」として語られてしまうという点であり、懸念するのは、そうされることにより上述のキャリア教育の潜勢力が馴致されてしまうのではないかという点である。
 キャリア教育のハウツーもの(指導案やマニュアルの類)はすでに多く出回りつつある。それらを見ていて気づくのは、「何のために学ぶのか」といった趣旨のテーマがそこここに登場してきているということである。これは何ら不思議ではない。先に見たように政策文書においてキャリア教育にそのようなことが期待されていた。したがって、ハウツーものでさえ、というよりはむしろ、であるがゆえに、「何のために学ぶのか」という問いに子どもたちを向き合わせることを求めているのだといえよう。
 しかしながら、誰もが気づくようにこの問いの効果は甚大である。この問いを呼び起こすことによって、毎日学校に行って勉強するのは当たり前という前提が外される。これはすでに、リフレクシブな、あるいはメタレベルの学習を求めている。もちろん、教える側の選択前提も外される。原則として、すべての教育行為に正当性証明が課される。これはつらい。負荷が大きすぎる(ような気がする)。
 政策文書や本書の著者が述べているように、キャリア教育が、「学校の教育活動の現状を再点検する視点であり、学校改革の視点でもある」(第2章)とされるのは、こういう事情によっているわけなのだが、政策立案者にしろ本書の著者にしろ、そのことがどの程度本気で考え抜かれたうえでの提案なのか、正直なところはかりかねている。しかもこのタスクは進学や就職といった現実と付き合わせたうえで遂行されなければならないのだ。これは学校教育に教育社会学と教育哲学を鮮度を落とさず持ち込むことに等しく、ある意味でそれは血の滴るような教育破壊的教育である。
 もっとも、それ=キャリア教育を「教育」にしてしまうという手はある。そうすれば血を流さなくても済むだろう。だが、それでは一番肝心な点が抜け落ちてしまうことになる。では、どうすればよいのか。あるいは、どういうことなら為しうるのだろうか。最後に、私なりの答案を書いてみることにする。
 選択前提を外して考え行動することができる(とても重要)が、場合によってはそれが維持されているかのように振る舞うこともできる。誤解を恐れず言い換えれば、ホンネとタテマエをうまく(ここが難しい)使い分け、どちらにも一本化しない、かつ、相互に相手も同様であるということを承認しつつコミュニケーションを遂行する。果たしてこれが最適解といえるのかどうか、自信はない。

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